シネマ日記 2001


  • 『バーティカル・リミット』(2000米 124分)   主演/クリス・オドネル、監督/マーティン・キャンベル。超ド派手な山岳アクション。事の始まりは、親子3人でロッククライミングしていて、ハプニングから3人が宙吊りとなり、妹の下に兄が、兄の下には父親がぶら下がっており、1本のロープから親子の命運がかかるという、極限の選択を迫られる場面から、いよいよ全体構成のストーリーは展開してゆく流れだ。登山家として生きるということは、そもそも登山家として山での死も受け容れることを意味する、と言わんばかりだ。3年後、妹のアニー(ロビン・タニー)がスポンサーの仕事で同行しヒマラヤ山脈のK2に登頂を挑むが、K2は世界第2位の標高8000m級の山、過酷な気象条件のなかさまざまな吹雪や雪崩などに巻き込まれながら、アニーが遭難してしまうが、落ち込んだクレパスでモールス信号を交信不通となってしまった無線機から何とか送り、登頂を目指した3人はまだ生存しているということを下のベース基地に伝える。兄のピーター(クリス・オドネル)は3年前のロッククライミング事故で父親を亡くした心の葛藤を未だ癒えぬままに、妹のアニーをどんなことがあっても救助するという決意で遭難現場へ自分を含めた6人がレスキューとしてK2に向かうことになるのだが、そこには人間が挑むにはあまりにも困難な限界点、つまりバーティカル・リミットが待っている極限の世界だった。ヘリコプターでさえ近付けない高さでもあった。

    こういうリアルな迫力のある映画を作るためには、基本的に新しい時代の映画学というか、まったく映画文化というものを着実に技術的にも人文学的にも、さらに大衆娯楽的でありながら非凡な肉体的演技力も兼ねて、実に高度な緊迫感を維持し続けるというダイナミズムとエンターテイメントの要素を兼ねた作品は、映画作りの根本的な高度な積み重ねがないと絶対に不可能なものである。アメリカ映画には常に前向きなチャレンジ精神があり敬意を払えるものがあるが、いつも感じるのは、どうして日本映画はいつまで経っても進歩しないのか、不思議で仕方がない。映画レベルとしては、質も量も肉体的クォリティーも、そしてスケールとしても、日本映画は先をゆくアメリカ映画から20年以上もすでに遅れてしまっているかにみえる。アメリカ映画には進歩というものがあるが、日本映画にはなぜか進歩というものがないかにみえるということは、やはり進歩せず停滞したままということなのだろう。おしゃべりばかりで肉体派俳優がほとんど皆無というのも重大な欠点で、そもそも勇気や度胸というものを勘違いしているのではなかろうか。威勢のいい掛け声ばかりで、あるいは凶器による威嚇か、テーマそのものがいつまで経っても貧困な気がする。楽なものにしか製作していないし、もっと名作となるようなものを生んで欲しいものだ。有名なのが名作ではない。困難なものや、容易でない映画作りで、もっと知的な主張もしてもいいのではないかと思う。人間とは何か、もっともっと掘り下げた内面と、映像にするだけの価値ある映画作りをして頂きたいものである。お金になるとかならないとか言ってるようでは、もう映画作りも終りである。『バーティカル・リミット』は今の日本では絶対に出来ない映画である。物真似でもいいから製作できるかいえば、それも不可能のようである。この映画はそういうお手本となる最高傑作の映画だということである。ただの山岳アクションではなく、技術的にもVFXを学ばないといけないし、提起されたテーマも判りやすく思慮深いヒューマンでもある。撮影も決死のロケーションだったようである。

    (2001/08/13)


  • 『ダイナソー』(2000米 82分)   ウォルト・ディズニー・ピクチャーズならではの、驚異の最新CG映像による最高傑作、アニメのジャンルとはかなり異なるハイパー・リアル映像の映画化である。恐竜たちの心温まる愛と勇気の冒険ファンタジーというところだろうか。ディズニー映画の長年の変わらぬ原点がここにも披露される。永遠に変わらない、思い遣りだとか心優しさだとか勇気と強さとかいった、子供たちにわかりやすいテーマが常に基本となっている。ディズニーの偉さは、動物たちなどを主人公にして、この原点が不変不滅のままに続くというモラルの偉さであり、いつも何かに挑戦してゆくという冒険心や斬新さにある。けっして怯むことのない夢の大きさや、それに立ち向かって行くだけのチャレンジ精神と、実現化への情熱だ。ある意味では古典的手法で観客の心を掴み、古典文化の豊富な日本より遥かに勉学熱心なところがあるとも言える。現在の日本には残念ながら、こういうディズニー文化というものが見当たらない。むしろアメリカ人の日本文化の研究熱心さのほうが、日本人によるアメリカ文化の研究熱心さよりも優位かもしれない。日本人はアメリカの技術には大変貪欲に学ぼうとするけれども、アメリカの映画や文芸・芸術に対しては鑑賞するばかりで、学んで独自のものにしようという熱意はあまり無さそうに見える。特に映画に関しては、圧倒的に日本は劣性である。原因は日本では映画を娯楽としてしか見ておらず、映画を学問として認めていないからだ。日本の大学にどれだけ芸術学部があるか知らないが、国立の大学で映画学科はいくつくらいあるのだろうか。私立大学ならばあるのだろうか。ニューヨーク大学の映画学科のようなものが、この日本にはあるのだろうか。映画を学問とみなし、映画の基礎から歴史や技術、語学研究や会話研究、映画を通じて海外の歴史研究まで学ぶことが出来たら、どれほどの若者たちが情熱を持って大学に学びに来るだろうか。

    草食恐竜イグアノドンのアラダーがこの映画の主人公であるが、物語も実に面白いけれども、何といっても巨大隕石が地球に落ちて来るあたりだとか、アラダーの育ての親キツネザル夫婦の表情だとか、壮大な自然の実写と組み合わされて作られたCG映像のダイナミズムは、まさに驚異の映像であり、あっという間のファンタジーの世界に導かれてゆく感動巨編でもある。一方、映画上悪者でもある肉食恐竜カルノタウルスとの戦々恐々とした緊迫感あふれる死闘の展開も、何とも迫力あるものだ。地上最大級の草食恐竜ブラキオサウルスの生き残りおばあさんベイリーンと、妙に無骨な姿のスティラコサウルスのおばあさんイーマとの会話は、何とも微笑ましい人生経験者のセンスが光って物語を盛り上げる。また、アラダーと同じイグアノドンの草食恐竜集団リーダー役のクローンは、勇ましいわりにはいつも狂暴なカルノタウルスから逃げ回っている臆病なところもあるが、ここまで個性的に存在感を演じられると、この映画のなかにひきずり込まれているわれわれ人間は、つい人間であったことさえ忘れてしまいそうになる。ひょっとしたら原子爆弾を作ったわれわれ人間こそが、この地球の歴史上もっとも凶悪な生物だったかもしれない。おそらくそれは紛れもなく事実であろうが、それに比べて恐竜の世界は、ある意味ではディズニーがわれわれ人間に投げ掛けた、近代史にも残る最も普遍的なテーマだったかもしれない。映画という見事なお手本の原点がここにある。

    (2001/07/09)


  • 『ホワイトアウト』(2000日 129分)   主演/織田裕二、監督/若松節朗、原作・脚本/真保裕一。原作と映画とはまったく別枠のものとして鑑賞したほうがいいのだろう。これからの日本のアクション映画には『ホワイトアウト』を契機にして、大いに期待したいものだ。そりゃ確かにジャン・クロード・ヴァン・タ゜ムやシルベスター・スタローンのような肉体派アクション俳優のようなわけにはゆかないかもしれないが、日本映画界に肉体派アクション・スターが不在なのも問題ではある。われわれはついアメリカ映画から多分に影響を受けているので、お粗末なモヤシのような肉体のアクションなどは観れば歴然と感得してしまうので、安っぽく見抜いてしまうのは仕方のないことかもしれないが、一人の日本人映画ファンとしては、日本の映画製作に戦略のなさをつくづく痛感してしまうのは、わたし一人だけのことなのだろうか。例えば、日本初の本格的スペクタクルSF巨編を製作するとしたら、初めから強靭な体格や体力を持っている日本人主演キャストを3年計画でアクション俳優として一から養成してゆくとか、『マトリックス』や『グラディエーター』がそうであったように最新SFXやVFXなどCG技術・音響技術を高度に駆使して工夫したりするとか、いろいろ改良の余地はありそうなのに、どうしても旧来型の映画作りでは、やはり衰退してしまうのではないかと懸念している。ファミコンやゲーム程度の技術しか日本のテクノロジーは進歩しないのだろうか。けっしてそんな陳腐なハイテク国家ではないはずなのに、どうも映画レベルとしては内容も映像も、手腕が欠乏している。ただ、今回の『ホワイトアウト』で唯一目を惹きつけたのは、特に音響効果であった。ロケが現地のタ゜ムを舞台にしているので、音響効果には抜群の迫力があった。ビデオをただTVで楽しんでもダメで、わたしのようにオーディオシステムに通して再生するとかなりの迫力がある。後は実際に映画館で鑑賞しないと、この映画の良さは伝わらない。

    この度の第24回日本アカデミー賞で『ホワイトアウト』が最優秀録音賞を受賞したのは、誠に納得できるものだった。受賞した小野寺修氏の経歴を見ると、大変な経歴の持主で、なるほど、日本の映画界にはこういった有能で優れた影のスタッフに恵まれていることもよくわかった。だとすれば、なおさら今後の日本映画にはもっと期待したいところだ。一方、音楽も非常によかったが、どうしても映画のスケール感がぎこちなかったためにアンバランスが生じていたのは、少し残念だった。最優秀助演男優賞を獲得した佐藤浩市は、世間が騒ぐほどの佐藤浩市らしさは今回の映画ではさほど発揮されていたとは思えない。トレンドなTVドラマのイメージが払拭されずに、本当はそろそろ主演映画で活躍してもいい個性の持主でもあると思うが、最優秀助演男優賞を受賞しても、ああこの俳優の存在感はこんなもんだったかな、というのが率直なところ。多少の監督責任もあるような、逸材を使い切れていないような気もする。松嶋奈々子の使い方もこの映画では向いていないかもしれない。配役の組み合わせの悪さというよりも、やはり俳優の体を張った本格的アクション映画を製作するからには、それなりの事も出来る俳優でないと、ある意味では非常に恥ずかしいことにもなる。この『ホワイトアウト』をアメリカで上映したら、ニューヨーク市民は何と感想をもらすだろうか。

    さて、織田裕二だが、TVドラマ『東京ラブストーリー』の頃からわたしは見ているが、この俳優は将来大物になるかもしれないと目を見張ったのは、TVドラマ『振り返れば奴がいる』の衝撃だった。こんな役も出来るんだと、本当に関心を引いた。それ以降、織田裕二の織田らしさはどこかに消えてしまったような、やたら弱々しい役にばかり抜擢されて、強いヒーローの面影を潰されてしまったような気がしてならないのは、わたしの錯覚か。松田優作が亡くなってからというもの、織田裕二、加藤雅也、豊川悦司あたりは日本映画界を是非とも背負って頂きたい若い世代の最有望格とみているが、映画界はもっと人材を本気で発掘してほしいものだ。今回、山奥の厳冬の吹雪のなかの撮影であるが、映画の随所にリアリティーが欠如しているのは、スタントや危機一髪の緊張スリル場面が、タ゜ムという場面にありながらほとんど無いのが原因。ヘリ、スノーモービルの追撃シーンや、爆破炎上、排水シーン、銃撃戦と、たくさんそれらしきものがあるのに、実際のところアメリカ映画『ダイ・ハード』のようにはならないのは一体なぜか。

    あれだけ苦しい撮影をしながら、なぜ迫力が出ないのか。例えば、胸の高さまである積雪の山の中を、カンジキなど足に何も付けず普通に歩いて数キロも実際に短時間で往復できるわけがないではないか。雪深い地域で暮らしている人には、非現実的にすぐに看破してしまうだろう。こんなわたしでも20代の時、冬の十和田湖で経験したが、胸まである積雪の中をわずか50m進むだけでも、かなりの体力が必要である。体力や根性にはある程度自信があったわたしだが、やっと100m進んだところですべての体力は奪われたものだ。とても往復6キロなど進めるわけがない。あまり支離滅裂な原作・脚本をそのまま映画化するには、それなりのリアリティーを表現できるだけの事をしないといけないだろうし、場合によっては『ジュラシック・パーク』や『マトリックス』などのようにかなり高度なSFXや視覚効果VFXの技術などを投入しないと、これからのアクション映画では観客を納得させるのは難しいかもしれない。お金をかけないで済むのが、俳優の存在感でもあり、例えば日本のプロレス界から人材を引き抜くのも面白い手であり、下手なセリフよりプロレスラーの格闘精神の方がよほど期待できるのではないかとわたしは視ている。

    (2001/04/20)


  • 第24回日本アカデミー賞に『雨あがる』8部門受賞!   先に日本アカデミー賞の発表、授賞式があったのは、先月の3月9日であったから、本当はアメリカのアカデミー賞発表の前に書いておくべきだったのだろうけれども、最近4月になってやっとレンタルビデオで鑑賞したものだから、今頃になって遅まきながら『雨あがる』を書いている次第だ。けれども、余程のことがないかぎり、ここの「シネマ日記」に執筆することはないわたしだから、やはり今回も書きたいことがあってこの受賞作品を紹介しているわけだ。実を言うと、織田祐二の『ホワイトアウト』も観てから書きたかったのだけれども、映画館では鑑賞していなかったのでビデオを早く観たいと思いながらも、これがなかなか人気があって、ビデオショップ・TSUTAYAにいつ行ってもすべて空っぽ状態なのである。『ホワイトアウト』は20本くらい並んでいて、『雨あがる』は4本ほど並んでいつも観られる状態だった。もっとも『雨あがる』は昨年2000年の6月23日にレンタル開始だから、故黒澤明監督のファンの人達はもうほとんど観ているのであろう。黒澤明遺稿脚本の映画化ということで、注目を浴びたはずだ。一方、『ホワイトアウト』は先月の3月9日にレンタル開始したばかりなので仕方がないのだろうが、この日本版「ダイ・ハード」とも言わしめたらしい本格派アクション大作と騒がれている日本映画も、わたしには楽しみだ。早く借りて観てみたい。

    さて、第24回日本アカデミー賞受賞作品『雨あがる』だが、『ホワイトアウト』を押さえて作品賞含む8部門をこの度受賞したわけだけれども、本当にいい映画だったと思う。部門別にいうと、作品賞(『雨あがる』)、主演男優賞(寺尾聰)、助演女優賞(原田美枝子)、脚本賞(黒澤明)、音楽賞、撮影賞、照明賞、美術賞、の8部門である。

    映画『雨あがる』は映画作品として大変立派に仕上がっているものだ。時間は91分で多少映画の長さとしては不満もあろうが、黒澤明遺稿脚本なのだから、映画化するのに小泉堯史監督は苦労されたはずだ。ブルー・スリーの未完の遺作がそうであったように、物故して主役のいない映画作りとは、他人が考えるよりも製作する側としてはとても難しいものだ。時代劇『雨あがり』はよくここまで仕上げたものだと思う。亡き黒澤明監督の遺志が忠実に再現されていたと思う。この映画を成功に導いているものは、浪人の三沢伊兵衛の役を務めた寺尾聰とその妻たよに扮した宮崎美子の夫婦間の演技に尽きる。この夫婦間の愛情に包まれたお互いの心理描写そのものに、人生観のすべてが凝縮されているのだ。実はこの一点に原作・山本周五郎のこだわりがひそんでいる。武芸の達人でありながら世渡りの下手な伊兵衛と、そんな夫にやさしく尽くす妻たよの美徳、たとえ貧しくとも武士の妻として潔さも兼ね備えた粋なこころの見せどころといい、なかなか現代人にもかなわない毅然とした生き方を二人は見せているのである。不器用ながらも平民にはとても思い遣りがあり、その一方、妻に対してはなかなか仕官が叶わないで苦労をかけて申訳ないと気遣って頭が上がらないでいる伊兵衛の妻への鄭重さも、どこか心温かなユーモラスが漂ってとてもすがすがしい。現代人が忘れかけているものを表現してくれている。

    それから映像も黒澤流に似たものがあった。黒澤明監督が生きていれば、もうひとまわり彩色的にもスケール感が出ていたかもしれないが、ある意味では小泉堯史監督の新たな渋味が出ているとも言える。映画『雨あがる』は珠玉の作品である。そして、あらためて山本周五郎の文学世界の原作の力強さにも惹かれた。原作あっての映画でもあることを、今回は多くの人が見逃しているように思われる。実直に生きることは難しい。実直に生きられなくなって、虚構と虚勢に縛られて生きている現代人の何と多いことか。

    (2001/04/10)


  • 第73回米アカデミー賞に『グラディエーター』5部門受賞!   3月25日夕刻(日本時間26日午前)アメリカ映画界最大イベントのアカデミー賞の授賞式に、ラッセル・クロウ主演映画の『グラディエーター』が5部門受賞に輝いた。ここの「シネマ日記」に今月12日に『グラディエーター』を書いたばかりなので、とてもわたし自身も嬉しい。それに『エリン・ブロコビッチ』にも触れて書いていたので、この作品で今回ジュリア・ロバーツも主演女優賞を受賞してくれたことは、またまた嬉しいかぎりだ。ラッセル・クロウが何年か前に工藤夕貴と共演したオーストラリアの三文アクション映画『ヘヴンズ・バーニング』も、これで少しは工藤夕貴の株もちょっぴり上がって微笑ましい存在ぶりともなった。昨年は『インサイダー』でアカデミー賞・主演男優賞候補となりながら受賞できなかったクロウだったが、そんな苦労クロウも今回の『グラディエーター』の受賞で、むしろオスカーはこちらの映画で主演男優賞を受賞するほうが遥かにふさわしい作品だったとも言える。それほど『グラディエーター』の活劇としての真価は実に充分なものであった。『インサイダー』の手法も映画としては大変すばらしいものだが、『インサイダー』を観て、『グラディエーター』を観れば、これはやはり映画の原点というべきか醍醐味そのものを満喫できる点で、『グラディエーター』には非の打ちどころがない映画と言ってもよいものだった。『グラディエーター』のアカデミー賞5部門受賞は次の通りだ。

    • 作品賞     『グラディエーター』(2000米 155分 / 監督:リドリー・スコット)
    • 主演男優賞  ラッセル・クロウ
    • 衣裳賞     『グラディエーター』
    • 視覚効果賞  『グラディエーター』
    • 音響賞     『グラディエーター』

    (2001/03/27)


  • 『グラディエーター』(2000米 155分)   主演はラッセル・クロウ、監督はリドリー・スコット。時はどれほど溯るのか、西暦180年大ローマ帝国を舞台にして、皇帝アウレリウスは後継に不肖の息子のコモドゥスには譲らず、最も信頼の篤い将軍マキシマス(ラッセル・クロウ)を選ぶところから、悲劇と復讐劇の壮大なスペクタクルが展開してゆく。不義な性格の嫡子コモドゥスを後継にしなかったことで、コモドゥスは老いた父親のアウレリウスを殺し、老衰で亡くなったかのように見せかけて権力の座を手中に入れると、将軍マキシマスを近衛兵たちに取り押さえさせ、山の森でこっそりと処刑するように命ずる。マキシマスは森の処刑場で咄嗟に反抗して傷を負いながらも連行して来た兵隊らを全員斬り殺し、自分の家族が危ないことを感じて家族のもとに急ぐが、すでに手遅れで妻と息子はコモドゥスの兵によって惨殺されていたのだった。そこからマキシマスの復讐劇が始まる。剣闘士(グラディエーター)として売買されながら、どん底の境遇から這い上がってゆく巨編ドラマである。2回観ると、この映画のすばらしさがだんだんとよく判る。音楽もすばらしい。

    こういう映画を観ていると、つくづく日本映画の衰退ぶりを憂えずにはいられない。日本の時代劇もいいとは思うが、何かスケールの物足りなさを感じる。日本の俳優がよくハリウッドに挑戦しようと渡米するが、工藤夕貴(『ヒマラヤ杉に降る雪』で全米で認められた)の果敢な挑戦以外には、ここ何十年もとんと聞かれない。日本の男優で世界に通じる映画俳優は、いったい何人くらいだろうかと考えると、たぶん指で数えられるほどもいないのではないか、そんな気がしてならない。かといって、では日本映画の衰退の原因は俳優なのかと言うと、けっしてそうではない。すばらしい俳優は男女ともにたくさんいる。なのに、なぜか拍子抜けの映画があまりに多すぎる。既得権益や血筋、国内知名度だけがあって、実際にいい仕事をしているなあと思える映画は、現代のものよりむしろモノクロフィルム時代の映画作品のほうが、よほどすばらしいものがあるのはどうしてだろう。映画作りに根本的な情熱が失われたのかというと、そうではなく、映画作りの根底に主張や思想あるいは人生哲学が無いということかもしれない。戦後50年以上が経ち、飽食の時代にあって、倦怠と堕落、虚無感に敗北してしまい、夢の度合いが萎んでしまったということかもしれない。夢を抱くことよりも、就職や人生設計を優先して、打算的な人間になってしまったのかもしれない。映画制作費だけの問題ではないような気がする。今の日本映画には、とにかく夢や思想がない。主張を怖れてしまっているのだ。ラッセル・クロウとアル・パチーノの『インサイダー』などは、実に勇気ある社会問題の映画である。ジュリア・ロバーツの『エリン・ブロコビッチ』においても、これまた勇気ある社会問題の映画作品となっている。俳優がいい仕事に誇りを持っているいい例だ。こういう映画のジャンルでさえ、今の日本映画では絶対に生まれない土壌となってしまっているのだ。その要因は何か。

    高い料金を払っても、ビデオではなく、上映されたらすぐにでも映画館で観てみたいというほどの映画ではないことを、実は観客自身つまり大衆はそれをよく知っているのだ。予告編でもそれはすぐに判ってしまうのではないか。つまり日本映画の価値が下がり、個性をも喪失してしまったのではないか。映画料金に似合った中身でもないというレッテルを貼られてしまい、ビデオ画面の大きさにも負けてしまっているということでもある。中身のない映画に誰がお金を払うだろうか。ビデオで充分なのである。故小渕前首相の推薦もあった沖縄舞台の日本映画『ナビィの恋』も、実際に鑑賞してみると、それほどの内容がある映画でもない。ただ、沖縄色が色濃く出ていて、これまでの日本映画の中では異色ある作品なのかもしれないが、戦争の悲劇と運命を遠まわしに置いて淡い恋物語だけに終らせてしまったのは、ちょっと惜しい。底抜けの明るさも何だか勿体ない気がする。やはりどこかに勇気ある主張を忘れてしまっている。しかしそれは、沖縄という風土の素朴な人情の表われでもあるだろう。ラッセル・クロウとメグ・ライアンが共演した新作映画『プルーフ・オブ・ライフ』(3月日本公開)も早く観てみたいが、これまでのこの二人に共通して言えることは、いい俳優はいい映画にしか出て来ないということだ。俳優の価値が映画の価値とも比例しているというところは、ハリウッド映画の特徴だが、そういう価値観を捨ててしまった日本人俳優がたくさんいる中で、日本映画はせめてもう少しスケール感のあるアクションが出来るくらいの体格や誇りを持った本物の俳優を育てて欲しい、と好き勝手に思い込んでいるのはわたしだけだろうか。今の日本映画やドラマには、みみっちい映画があまりに多すぎる。ハリウッド映画がすべていいと言っているのではなく、コンテンツの貧しさほどヒューマニティも欠けるということを言いたい。だから感動も無くなるのである。

    (2001/03/12)


  • 『トイ・ストーリー2』(1999米 92分)   米ピクサー社&ディズニーの3DCGアニメ、前作の『トイ・ストーリー』を遥かに超えた別格のもの。ブエノ・ビスタ配給の日本語吹替版ビデオで楽しませてもらった。CG技術にも注目するが、あらためてテーマの奥深さにも感銘する。こういうものしか製作しないディズニー映画の姿勢には、敬意あるのみである。こころをなかなかうまく描きれない映画作品が数多くある世の中で、こういった心を打つディズニー映画が生まれることは、世界の宝でもある。子供から大人まで惹きつける心のファンタジーが素晴らしい。発想の根底にある「おもちゃ」の立場から人間界を見据える手法は、ディズニーならではの伝統とも言えるし、アニメの世界の特権でもある。人間より弱い立場の「おもちゃ」たちが繰り広げる物語には、抜群の明るさ・ユーモラスのなかにあってさえ、ホロリとする場面が幾つもある。こういう仕立てを守りながらも、一方ではかなり最先端のハイテク技術と高度な実写のリアリティーで以って、映像を魔術的に駆使してゆくところが、常に最高にして斬新である。その映画作りへの情熱には頭が下がる思いだ。コミカルでありながら、まるでSFアクションともなり、あたかもどこかでアーノルド・シュワルツェネッガーの映画でも観ているような交錯した気分にもさせられるから実に面白い。

    このアニメ映画のストーリーはどこのサイトにも解説してあるので、いまさら書く必要もないと思うが、人間の子供アンディという男の子の部屋にまつわる物語なわけで、カーボーイ人形のウッディ、宇宙飛行士人形のバズ・ライトイヤーを中心にして、『トイ・ストーリー2』ではカウガール人形のジェシーが新登場する。人間の子供がやがて歳月とともに「おもちゃ」を換えてゆく、あるいは大人に少しずつ成長する過程で、いずれ捨てられてしまう「おもちゃ」の宿命を、せつなく取り上げたものだ。「おもちゃ」たちから観た視点が実に見事である。人間の子供の女の子から一度捨てられたことのあるジェシーの悲しみと、人間界ではプレミアの付いていたレア物としておもちゃコレクターにさらわれてゆくウッディの運命と、とんだ騒動に巻き込まれて本当に生き生きとした「おもちゃ」たちの人間界へのアドベンチャーといったところであろうか。ディズニーワールドの愛と夢と冒険がまた一つ増えて、わたしたちはとても幸せだ。

    (2001/01/18)


  • 『サイダーハウス・ルール』(1999米 126分)   メイン州ニュー・イングランド、田舎のセント・クラウズにある孤児院で育てられたホーマー・ウェルズを主人公とする物語。アメリカ映画のいいところは、こういうヒューマンな映画も着実に製作しきっている幅の広さであろう。アドベンチャーもあればアクションやサスペンスや何でもありで、SFXやVFX(視覚効果)といったCGなどのハイテク技術を駆使して、信じられないような光景や描写を実映像化してしまうかと思えば、一方で歴史観や人間の普遍的テーマも奥深く追求していることであろう。今回の『サイダーハウス・ルール』もそんなヒューマンなアメリカ現代文学の作家ジョン・アーヴィングの原作で、そしてジョン自らが映画作りとしても脚色をこなしたものだ。と同時に、この映画で2000年アカデミー賞最優秀脚色賞をも受賞している。

    ホーマー・ウェルズを演じるトビー・マグワイアや恋のお相手となるキャンディ・ケンドール役のシャーリーズ・セロンといった戦時下の青春群像たち、そしてリンゴ農園で季節労働者として働きに来るローズ親娘を中心とした収穫人たちと、ホーマーが生まれ育った孤児院での家族同然の子供たちを中心とした仲間たちなど、登場人物がたくさんいる中で、やはり一番の魅力的な人物はといえば、この孤児院を支えて来たウィルバー・ラーチ医師に扮するマイケル・ケインの存在感である。子供たちへの深い愛情とユーモアは観る者を泣かせるほどに光っている。ラーチ先生なくしてこの映画は成り立たない。子供は親がいてもいなくても、思春期になればいろんな夢を抱くものだ。その子供が描く夢を、大人は決して束縛してはならない。しかし、親心としては子供が生きてゆく上で、何らかの手助けをしたいと思うのも無理もないことではあるのだ。里親に引き取られて行っては、また孤児院に返されてしまっていたホーマーの行く末を心配するラーチ医師の情愛には、頭が下がるほど敬虔なものがある。大人の身勝手で生まれて来た子供たちに何の罪はないのだ。生まれ出づる一つの小さな命には、必ずその命にその子の人生が宿る。『サイダーハウス・ルール』では、人間の背徳も絡めて、美しさだけを描写しないところがいい。ラーチ医師を演じたマイケル・ケインには、2000年アカデミー賞最優秀助演男優賞が与えられた。映画の魅力はやはり役者次第ということでもある。いい映画だった。

    (2001/01/05)





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