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急行列車「北極号」に乗り、サンタさんを信じて冒険の旅に出よう!

THE POLAR EXPRESS(English)
    シネマ日記 2004
『二十四の瞳』(1954日 162分)
【松竹映画  昭和29年度 芸術祭参加作品 文部省特選映画 優秀映画観賞会 第一回特選作品】
【脚色・監督/木下恵介  原作/壷井栄  製作/桑田良太郎  撮影/楠田浩之  主演/高峰秀子】
不朽の名作がVHSに復元されたのが1991年、DVDに至ってはまだ難しいようである。ネガの傷みも相当のようである。松竹ホームビデオが精一杯復元の技術処理を施したが、最良の画質とはいえない箇所があるとのこと、事情をお汲み取り下さいまして、ご観賞下さるようお願いします、と初めにおことわりが出ていた。レンタルビデオとして甦ったわけだが、わたしが小学生の頃に近所の広っぱで夜になるといろいろ映画をやっていて、それ以来のことになるから、その中に『二十四の瞳』もあったような、なかったような、遥か遠い記憶のことで内容はさっぱり忘れてしまっていた。あまりに名作中の名作というイメージで、映画のタイトルと原作者の壷井栄だけが頭に残っていて、あとはあらためてどんな物語だったのか、何もかもがすっかり風化してしまっていた。まだテレビというものが普及しておらず、大竹のポールを左右に立てて映画スクリーンとなる白い布の幕を張り、それに映画が映るように映写機のピントを合わせていた頃のことである。どちらが表でどちらが裏なのか、前からも後ろからも見えていたが、映写機のある側から見えるのが表なのは当たり前のことであるけれども、子供ごころにはグルグルまわってはしゃぐのが関の山だから、その頃に一体どんな映画をやっていたのか曖昧で、モノクロだったのだけは憶えている。紙芝居とぽんぽん菓子と水飴を舐めていた頃のことで、古き良き時代の名残りが大いにあった昭和30年代の記憶である。

小豆島へは一度だけ行ったことがある。『二十四の瞳』の舞台となった分校を訪ねたいと思い、その木造建ての小さな校舎を探して歩いた。とても可愛らしい、ほのぼのとした木のぬくもりが感じられる分校だった。映画はそんな分教場を舞台に自然の風景を映しながら始まる。海と手漕ぎ船と島々と山々や畑の景色と、懐かしのバスと、遠くから自転車に乗ってやって来る大石久子先生(高峰秀子)、その姿を見て「オナゴ先生じゃ」と小学1年生たちが言う。桜の花が咲く季節、12人の子供たちを受け持つ大石先生との心温かなふれあいを描く。そんなある日、子供たちと遊んでいた大石先生は、男の子がきれいな貝を見つけたと言い、だまされて砂の落とし穴に先生が足を入れ、挫いて骨折することになる。仕方なく数ヶ月は学校へ来れなくなるからと、自宅療養することに。そして、12人の子供たちは大石先生会いたさに、2里の山道をおそろしく長く感じながら、自宅にいる先生のもとへ歩いて行くのだった。やがて月日は流れ、教え子たちのさまざまな家の事情で奉公に出される者もいれば、貧しさと苦しみや悲しみに翻弄されながらも、明るく喜びに溢れる日々のなか、やがて不穏な戦争への時代背景を醸しながらも、時代の波に希望をもって生きてゆかなければいけないと諭しながら、あるいは励ましながら、いつも子供たちと一緒に生きる大石先生。「先生にはどうにもしてあげられないけれど、一緒に泣いてあげることしかできないの」という大石先生であった。別離、戦死、運命、そして再会。20年間にわたる教え子たちとの心あふれる感動の映画であった。当時の郷愁や純真さがまぶしい。戦時教育の煽りを受けながらも、平和を願うことが「アカ」とされ非国民とされた時代に、大石先生は平和な暮らしが人の幸せにつながるという信念を持ち続ける。教え子たちが兵隊にゆくことを悲しみ、終戦となるや、自分の夫も教え子たちもみんな戦死してしまった。墓標の前で涙ぐむ大石先生、再び岬の分校に赴任して来たことで、かつての教え子たちが再会を祝して宴の席を設けることに。ラストシーンで歌がうまかった香川マスノを演じる月丘夢路の「浜辺の歌」が、あまりにも切なくて美しかった。これほど心に沁みる日本映画は、後にも先にも生まれることのない乾坤一擲の珠玉の作品であろう。

(2004/09/27)


『道』(1954伊 107分)
【監督・原作・脚本/フェデリコ・フェリーニ  音楽/ニーノ・ロータ  主演/ジュリエッタ・マシーナ、アンソニー・クイン】   先頃、何となく再びイタリア映画の名作『道』を観たくなって、ビデオを借りて観た。やっぱりいつ観てもいい映画だった。世情や日々の暮らしに何となく迷いが生じたり憂鬱になってしまった時の特効薬といってもいいかもしれないのが、わたしの場合には映画鑑賞で、治癒には持って来いの一つでもある。作品『道』には、あらゆる人間の原点に戻してくれる強い主張があって、いつも感銘深い。人間が生きてゆくとは、こういうことなんだ、こんなにも矛盾と辛苦に孕んでいても人生はすばらしい、美しい、笑いも一杯だ、かなしみばかりではない、よろこびもたくさんあるし、心やさしさにも満ち溢れているんだよ、と作品は実に大衆に向けてリアルにシンプルに描かれているわけだけれども、アンソニー・クイン演じる怪力大道芸人ザンパノの生きる姿は、それらに反して、実に孤独に閉ざされている描写は見事と言うしか他ない。たくましく、浅はかではあるけれども、生きるとは何かを如実に表わしている。一方で、この映画を最も愉快に、美しく、感動を与えてくれるのがヒロインのジュリエッタ・マシーナ演じる女道化師ジェルソミーナで、時代背景としてもその役柄には、映画鑑賞している側にさえ頭の下がる名演技は言うに及ばず、ストーリーのなかに溶け込んでしまっている自分があるのさえ忘れて、胸を打たれるシーンの何と多いことか。これは映画なんだということをまったく度外視させてしまうほどの、ノンフィクションかドキュメントのようでさえある。ただただ驚かされてしまいっ放しで、実際に切ない曲をトランペットでジェルソミーナ自身が吹くあたりには、名曲の音色と感動が合わさって観る側とドラマとが一体化している。

人間社会が冷酷で残忍なのは今も昔も変わらないかもしれないが、ほんの半世紀前の当時と比べて現在のように人間関係までが殺伐としていたかは少し異なるようにも思える。原爆は半世紀前の物理学者の悪質な功績であるが、それを使用した人間の悪意は今もさほど変わらず、兵器の形を変えてイラクやアフガニスタンや中東諸国において繰り返されている事実は否めない。本当に絶望的な人間の愚かしさで、神や正義の名のもとに戦争と憎しみの報復を反復している様は、相変わらず狂気の時代としか言いようのない殺伐とした状況だ。いろんな世界情勢や社会変化に対応しなければならない人間は、それなりの叡智も必要だろうが、時には何もかも忘れて、こうした古き良き時代の名作『道』をあらためて鑑賞してみることで、きっと現代人が見失っていたものを取り戻せるような気もする。最後にザンパノが気が付いたように、人間には生きてゆくための生活費よりも、心の支えとなる人間本来の持ち得ている大事なもの、ほんの少しの思い遣りとスプーン一杯の愛情さえあれば、枯れずに済む花があるということである。少し頭の弱いジェルソミーナという設定ではあるが、彼女の純粋な安らかな暮らしへの願望は、少しも難しいことではなく、男のエゴさえなければ自然と掴めるものなのだ。ジェルソミーナの不幸は、今も毎日どこかで家族を犠牲にしているイラク国民の特に女性とも共通する人間テーマでもあるだろう。人間としての「道」を問いかける普遍的テーマは、この映画のなかに今も生き続けている。

(2004/05/27)


『あずみ』(2003日 142分)   監督/北村龍平  主演/上戸彩
夢を持って生きる、という生き方をし得なくなっている自分に弁解をするならば、夢を抱くむなしさよりも、この現実こそが夢心地なんだという陶酔のほうが、わたしには遥かに貴重となっている。人間はいつ死ぬか判らないけれども、こうしてまだ生きている、あるいは、まだしばらくは生きていられそうだ、という時間の実感のほうがわたしには遥かに大事となっている。夢を持つことよりも、この世は本来が夢心地であって、その夢まぼろしであることに気がついてゆくことのほうが、時間を大切にすることでさらに充実した夢心地を一層味わえるし、濃密な人生を過ごせているような気がしてならない。実現されていることに気がつくことが夢で、叶わぬ夢を追い続けることはチャレンジ、そして希望の光と映るけれども、たとえ夢が叶わなくても、苦しみや重荷を伴うものは初めから大した夢ではあるまい。

平凡なことにみえるかもしれないが、こうして映画を楽しめることを、とっても幸せに思えるし、自分のホームページの「シネマ日記」に思ったことが書けることの幸せもつくづく感じている。人が映画をいろいろ評価しているのも楽しいことだし、点数まで与えている人がいるのも楽しいことではある。映画の採点や受賞ノミネートに明け暮れている人達がいて、高く評価したり低く評価したり、また実際にその映画の興行成績の収益によって映画会社もいろいろと翻弄されてしまったりする。映画を採点して己れの見識の正しさに酔っている人の神経の持主とは、一体自分自身ではどういう立派な生き方をしているつもりなのか見てみたいところだ。『作家の値うち』というタイトルの本を出している人もいるが、その中でいろんな作家の作品を採点して点数を与えているわけだけれども、命を採点する馬鹿評論家で、それをブック・ガイドや文学案内のつもりでいることがどれだけ滑稽なことか解らないらしい。少なくともそれと似たような見識で以って映画には触れたくないものである。

1本の映画作品は、その映画会社の、その監督の、その作品に出演する俳優たちの、その映画を裏方から支えている大勢の人達の、いろんなスポンサーの、あらゆるスタッフたちの、生み出された命なのである。命は採点してはならぬのである。この世の中にはいろんな命が生まれるが、命をかけて生み出された命には採点してはならない。あらゆる命には尊厳があり、敬うのが天地に対しての礼儀である。映画『あずみ』もそのような命の作品として生まれている。真剣に仕上がってもいるし、痛快にしてユーモラスたっぷりのチャンバラ・アクションでもある。あずみと美女丸の対決シーンで、360°縦に回転する3次元的撮影を可能とするファントムというカメラ機材は日本に1台しかないとのことだが、その撮影シーンで鳴り響く音響効果も実に素晴らしい。あずみが高い櫓の柱を刀で斬ってしまうシーンもあるが、その櫓の倒れて来る音響効果や地響き、あるいは爆破シーンなど、映像に伴った音響や音楽プロデュースのこだわりには大変驚かされた。ただ、それらの迫力ある効果音もオーディオシステムかホームシアターのアンプを通さなければ、それらは楽しめない。

映画のストーリーについてはここで書いてみても意味はないので、ただ、人を殺める娯楽映画としてこの時期、不評を受けたかもしれない。殺陣とか刺客とか、あるいは復讐とか、結構殺伐とした場面ばかりが出て来るが、あくまでそういったジャンルの娯楽映画なのである。注目したいのは、主人公あずみ役の上戸彩の立ちまわりである。女性の若手タレントやCMアイドルが「3年B組金八先生」や「高校教師」など連ドラの域から抜けて、映画女優としてもここまで満身創痍で本格的に剣術も学び殺陣の立ちまわりやワイヤーアクションに果敢に挑戦しただけでなく、それがまた様になっているから演技に対する執念というか、とても高く評価される。映画は論理的に鑑賞するものではないから、刀のさばき方がうまい下手は映像手法で何とでもなるようにはなるが、いつの間にやらわたしも映画のなかに釘付けにされた魅力は果たして何だったのだろうかと考えるに、これは今までの時代劇としては日本映画には無かった部類のものではなかろうか。とにかく全体的にすばらしい撮影でもあったと思う。若き刺客たちの現代風言葉遣いや茶髪などに問題ありとする人達もいるだろうが、それを言ってしまったらワイヤーアクションについてもずいぶん非科学的問題となってしまうから、ここは映画を楽しむことのほうが理にかなうというものだ。久し振りに痛快な価値ある日本映画に出会った。

(2004/01/13)

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今年こそは昨年と違って、いろいろと書きたい映画がありそうです。ただ、あー面白かった、と一度きり観ただけで終ってしまうものは、やはり書きたいという衝動がなかなか湧いて来ません。書かずにはおられない映画、もう一度だけ観てみたい映画、何度観ても「いいね」という映画、忘れられない映画、そういうシネマ日記になろうかと思います。たとえば、日本映画『あずみ』(2003年)は今とっても書いておきたい映画の1本です。まず、音響効果はすばらしいナチュラルな音質の臨場感にあふれていますし、バックのサウンドストリングスといい、刺客という異質な時代劇VFXアクションにとどまらず、今生のさだめを匂わす寂寥感に満ちた岩代太郎の音楽プロデュースは、さすがに一流だとあらためて感心させられました。コミックをリアルな描写で実写化する手法は、TVドラマでも結構多いのですが、本格的な日本版映画アクションとしては、近年まれな傑作痛快娯楽映画として高く評価されることでしょう。少しはハリウッド映画に近付いたと思います。それにわたしが高校生の頃からファンだった原田芳雄が何と言っても作品を引き締めています。重鎮の存在感が脇に控えて、若き俳優たちをまぶしげに育てているような、原田芳雄プロモーションの塾生たちの如くに見えてしまいます。これからの日本映画には、こういったアクション系の力強い努力の賜が必要です。傷だらけの映画ロケには、必ず報われるものが返って来ると思います。『あずみ2』を今から期待したいところです。主役はもちろん上戸彩ちゃんで、「ながら」役の石垣君も生き残ったことだし、「美女丸」役のオダギリジョーが首ごと斬られちゃったのは惜しいけど、亡霊役で再登場というキャラでもいいのでは。ということで、シネマ日記2004を今年も書き綴ってゆく予定です。

(2004/01/09)





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