シネマ日記 2005
- 『Mr.インクレディブル』(2004米 115分)
- 【監督・脚本・声:ブラッド・バード 製作総指揮:ジョン・ラセター】 こういう映画が生まれて来るアメリカ映画を、本当に敬服してしまう。優れたCG技術以前の前提として、かくも発想と主張の展開が実にすばらしい。アニメであれ、キャラクターであれ、超一級の名作として残ることには間違いない。日本では生まれて来ないヒューマン大作だ。宮崎駿もいいが、『Mr.インクレディブル』を鑑賞堪能してしまったら、その表現のあまりの違いに愕然となってしまう。3Dの最新CG技術進化の表現だけを言っているのではない。スーパーヒーロー全廃制度という社会風刺から端を発した構成の物語が、初めから秀でて格調が高い。非凡な能力と平凡な家族の日常が、あまりに面白すぎる。愉快、痛快、感動、美しい映像の連続、何とも見事なアクションムービーである。
レンタルDVD日本語吹替版でたっぷりと鑑賞させてもらったが、声のMr.インクレディブルことボブ・パーに三浦友和、インクレディブル夫人ことヘレン・パーに黒木瞳が担当していて、最初は映画を観る前から声優でなくて俳優の担当ということで期待できない先入観があったけれども、それは大きな間違いだった。この『Mr.インクレディブル』の映画においては、三浦友和と黒木瞳で大成功だったと思う。これはきわめて珍しいことと言える。現在の三浦友和と黒木瞳の役者としてのベテランの味がふんだんに出ていて、実にすばらしかった。吹替版は本来やはり本物の声優が一番で、やたら有名俳優がやるとほとんどが失敗している。そんな中で三浦友和と黒木瞳のコンビは、実に稀有なほどしっくりとキマっていた。たぶん声優としての積み重ねのようなものも経験があるのかもしれない。それにしても、3人の子供たち、ヴァイオレット、ダッシュ、ジャック・ジャック、こういう子供たちが自分にもいたら、さぞかし人生は痛快で楽しいことだろう。この映画が全世界の観客たちをどれほど幸福感に包み込ませて来たか、名作というものは、常に人の心をテーマとしているかがよくわかる。本当に最高の映画だった。すばらしい贈物をもらったような気がする。『Mr.インクレディブル』に感謝したい。
(2005/10/05)
- 『あずみ2 Death or Love』(2005日 112分)
- 【監督:金子修介 原作:小山ゆう 主演:上戸 彩】 アメリカとは台所事情の違う日本だが、またこうして『あずみ2』が観れることに安堵を覚える。『あずみ2』をレンタルDVDでやっと観た。年々殺伐として来た日本社会であるが、こうしたアクションとVFXを混ぜた殺陣主体の映画製作にも当然ながら何らかの規制を受けていたことであろう。文部科学省や映倫などから幾ばくかの締め付けもあったかもしれない。宣伝では前作の『あずみ』よりもパワーアップしたとのことだが、北村龍平監督ならばそうだったかもしれないが、どういうわけかパワーダウンしてみえた。パワーの意味がすりかわっていた。前作『あずみ』では刺客の存在意義と物語の筋書きにも驚いたが、時代劇映画にも社会的テーマというものが毅然と表現されてあったように思うが、まあ、前作『あずみ』の続きということで、今回は筋書きよりもVFXアクションがメインだったのだろうか。何もかも覚悟の上でのびのびと主張して、妥協をしない社会派時代劇に徹すれば、むしろ意外とさほどの締め付けもなかったかもしれない。金子修介監督も結構やりにくかったのではなかろうか。日本の現代社会の束縛が映画作りにも影響を与えている作品とみて取れた。
自殺者が年間3万人以上といわれる現在の日本社会は、社会が歪んでいるというよりも、社会を異常にしてしまう社会構造に病巣があるといえる。犯罪も異質な形で異常に増えている。人情やモラルが平然と裏切られるような社会となって、政治においても、今回の衆議院選挙に圧勝した小泉政権は、いかにも時代の象徴を繁栄している。当選した衆議院国会議員の顔ぶれを見ると、国民の血税を食い物にした経歴の前科者やタレント気取りがごろごろいて、それを楽しげに連日たくさんのメディアが追いかけている。この国のTVメディアは金持ちと権力者とTV著名人が大好きで、ネタにもならない人格者や平凡な大衆は低俗としか思っていないようだが、低俗以下のTVタレントまがいのいかに多いこと。いつかその傲慢さやツケは取り返しのつかない時代へと変遷するのだろうが、ますます弱者が切り捨てられてゆく資本主義社会であることには変わりないわけで、どの道この現実が何とも薄ら寒く続くのは間違いない。そんな閉塞感の漂う毎日の日々のなかで、映画『あずみ2』はわたしにとって何だったのか検証してみるに、撮影現場で満身創痍となりながらも頑張る上戸彩という華奢なアクション女優への敬意の念もあるが、日常のTVドラマ番組の連ドラの衰退への反発もある。TVドラマにないものが映画にはある、そういった映画がわたしは観たいわけだけれども、逆にTVドラマにも劣る映画は見たくもない、ということにもなる。
作品『あずみ2』には実に大勢のスタッフやスポンサーが協賛しているわけで、その人達の熱意は確かにこの映画で報われていると思う。作品はあっという間に鑑賞してしまった。しかし、前作よりもパワーダウンしてしまっているのは、脚本とプロデュースの失敗に要因がある。高島礼子に「極道の妻」を再び演じさせてどうする。『あずみ』の空気には場違いである。1シーンの緊密な空気で凄味を出そうと思ったら、あんな下劣な負け犬の遠吠えでギャアーギャアーと啖呵を切らせないことだ。戦いを前にして、殺気に威嚇は負けを意味する。殺気に凄味を出そうと思ったら、冷淡な狂気で肉迫させることだ。おまけにあのいやらしげな鎧は何だ。乳房鎧の乳首から鎖を垂らして、最低の悪趣味である。『あずみ』をぶち壊した要因の一つでもある。SMの世界を連想させてどうする。馬鹿か。上戸彩のこれまでの努力を台無しにするつもりなのか。これ一つ判らない金子修介監督の責任は大きいといえる。主人公「あずみ」は成長して二十歳になっても、永遠に少女のままの刺客でよいのである。大方の「あずみ」ファンならば、それを願うであろう。今回映画のお題目のように、「少女を捨てる」などと言うんじゃない。「少女」を「女」に仕立てた瞬間から、『あずみ』は死ぬ。物語のキャラクターは永遠に不滅でなければならない。「あずみ」を女に仕立て、年数が経てば、次は中年女にしてしまうつもりなのか。鉄腕アトムも鉄人28号もスパイダーマンもスーパーマンも、みんないつの時代になっても永遠のヒーローとして語り継がれ、『スカイキャプテン』(2004米 主演:ジュード・ロウ)のようにCGやVFXで現れることになっている。これが劇空間の文化だと思うが、違うか、金子監督! 前作監督・北村龍平はどこへ行った。上戸彩を置いてきぼりにして、どこへ逃げた。もしかして『あずみ3』製作のためにハリウッドで巡業中とか。
さて、『あずみ2』では大きな収穫があった。断トツそれはパンクラス格闘家・謙吾が演じた六波の存在感だ。こういう起用をどんどんして欲しいものである。長刀ブーメランを操る大男だが、日本のVFX技術も大したものだ。非物理的にも非科学的にも思わせないド迫力映像と音響効果は抜群だった。DVDはもちろんわが家のオーディオシステムで堪能させてもらっているので、その醍醐味は保証付きだ。そして、坂口拓の演じる土蜘蛛のワイヤー蜘蛛糸も音響効果抜群の闘いシーンで実に面白かった。さぞかし「あずみ」役は大変だったろう。ただ、上戸彩がどうしてこの時期に写真集を出さなければならなかったのか、どうもその背景に今回の映画の興行収益にも関係がありそうにも思えるのだが、CM女王の顔と、群がるスポンサーの影も気にかかるところだ。ドル箱の上戸彩が今後も手を抜かずに映画女優として邁進してくれることを願わずにはいられない。今年3月映画公開中にいろいろと酷評もあったようだが、2本の『あずみ』を演じ切った上戸彩が、アクション女優としてヒロインを扮した実績は高く評価すべきである。今回作品で、ながら(石垣佑磨)を殺したこずえ(栗山千明)も『キル・ビル』でメジャーになって以来、いい脇役を果たしているが、「あずみ」の運動量は全体を通じて圧倒的である。ラストシーンの真田昌幸を演じた平幹二朗の最期は圧巻といえる。さすが重鎮の役者である。井上勘兵衛(北村一輝)の主君・加藤清正の仇討ちが今後どうなるのか、最早大役を果たした「あずみ」にとって『あずみ3』はあり得ないのか、日本の映画産業の予測も窺がわれるところでもある。「あずみ」を元の刺客少女「あずみ」に戻せば、『あずみ3』も見えて来るが、いかに。
(2005/09/26)
- 『モンスター』(2003米 109分)
- 【監督・脚本:パティ・ジェンキンス 主演:シャーリーズ・セロン】 2003年度アカデミー賞最優秀主演女優賞を獲得したシャーリーズ・セロンの、オスカー受賞にふさわしい渾身気迫に満ちた衝撃の実話ストーリー。アメリカ初の女性連続殺人犯の誕生から死刑宣告までを描く。実際の殺人犯の名前はアイリーン・ウォーノス。1956年アメリカのミシガン州生まれ。親に捨てられて、16歳で娼婦になったとされる。暴力的な客の一人に殴打され撲殺されかかるところを正当防衛で何とか反撃、銃で男を射殺。それを機に次の客から金だけ奪って男たちを次々に殺害してゆく殺人鬼「モンスター」に豹変してゆくところから、彼女の連続殺人が始まっている。男性7人を殺害して獄中に12年間服役。その後、2002年に薬物処刑されている。そんなアイリーンの実像を扮するために、セロンは13キロも体重を増やし、眉毛を抜いて義歯をつけ、いかつく野蛮な風貌を作りながら、荒々しい素肌になるまで肉迫させて撮影に挑んだとのこと。社会的スキルも能力も学歴も何もない酒浸りの娼婦、偏見と社会的制裁を受けつつ、不器用ながらも必死に生きようとして粋に振る舞う大柄で浅はかな娼婦、そんな女の役作りに執念を燃やしたセロンの意気込みに敬服してしまう。世界で最も美しい50人に選ばれた、あのシャーリーズ・セロンの迫真演技は実に見物である。セロンを惹きつけたこの映画製作へのモチーフも大切にしたいものである。
それにしても連続殺人犯の実話と生涯を映画化するのも珍しいが、その根底にあるものは、この映画を観ればおのずと製作に値するだけの動機も鮮明となって来る。愛を知らない一人の貧しい女が、信じていたはずの同性愛者にも死ぬまで裏切られてしまう姿は、悲しくて哀れである。救いのない哀れな女性連続殺人犯を、美しいイメージを持った女優稼業の全地位をかなぐり捨ててでも役に扮したセロンが、処刑されてしまったアイリーンを唯一救ったともいえるだろう。幼くて独り立ち出来ない少女セルビーは同性愛者としてアイリーンの前に酒場で現れるのだが、すばらしい未来を夢見る少女の打算的な浮薄な愛は、この映画の結末で幻滅と化す。年齢差の大きい少女と野獣のような娼婦との同棲生活は異様でもあるが、人間の本性や本能が丸出しで、滑稽な場面と残酷なまでに切なさが漂っており、生きるとは何かを問い糺す。セルビー役のクリスティーナ・リッチは『スリーピー・ホロウ』にも出演、どこかキャラが濃くて適役かも。いずれにせよ、この映画によって、また一つアメリカに名作が出来たことだけは確かである。わたしは小説『カルメン』や『椿姫』をふっと思い起こしていた。そういえば『罪と罰』のソーニャも娼婦であるが、人間が生まれつき不平等であることの現実感と哀切さを背負ってしまうことに、つくづくこの世の一抹のむなしさを覚えてしまう。せめて映画の世界で愛が描かれるのは、唯一の救いではある。ニコール・キッドマンとユアン・マクレガーの『ムーラン・ルージュ』もその1本である。これもすばらしい映画であった。『モンスター』を演じたシャーリーズ・セロンをますます好きになったが、ところで、元のスタイルの良かった美人女優には戻れるのだろうか。これは次の彼女の新作で是非確認したいところだ。
(2005/08/25)
- 『ガス燈』(1944米 114分)
- 【監督:ジョージ・キューカー 原作:パトリック・ハミルトン 主演:シャルル・ボワイエ/イングリッド・バーグマン】 1940年代の古きサスペンス映画である。この映画の作り方にも魅了される映像構成が、またたまらなく刺激的だ。19世紀末のロンドン、霧の漂うソーントン街、街路灯のガス燈を一つ一つ点けてゆく光景が、何とも薄寒い空気を漂わせて来る。静かな町のたたずまいに一頭の馬車の蹄の音と、車輪の軋む音がやがて近付いて来るところから、映画の場面は進行し始める。音楽も何やら怪しげな匂いを含んでいる。この映画製作の撮影担当はジョゼフ・ルッテンバーグ、音楽担当はブロニスラウ・ケイパー。アカデミー賞美術監督賞、室内装飾賞を獲得している。映画作りのお手本が見られて大変勉強にもなる。ここで映画の筋書きを書いても仕方がないので、俳優にちょっと焦点をあててみる。
作曲家のグレゴリーを演じたシャルル・ボワイエは、この『ガス燈』では実は宝石泥棒で殺人犯だったという設定なのだが、1897年フランス生まれの彼は、ソルボンヌ大学を卒業後、コンセルヴァトワールで演劇を学んで、舞台や映画で活躍しながら、その後渡米してアメリカでデビュー、ブロードウェイにも進出し、実に数々の作品をこなし続けた経歴の持主のようだ。「007」シリーズや『パリは燃えているか』『おしゃれ泥棒』『80日間世界一周』『裏街』『邂逅(めぐりあい)』など実に華々しい仕事をし続けた俳優だ。そして1978年に歿するまでの晩年は、子供の自殺、妻の死と、いろいろ心労が重なってか、すぐに妻の後を追うように彼みずからも自殺、と年譜にある。俳優稼業も多難ではあるようだ。だが、彼の足跡をみていると、俳優はやはり映画作品を残してこそ俳優であり、映画もまた俳優次第というところもあるようだ。私生活と役の上での演技生活とは区別されて然るべきなのだろうが、役作りという長年の努力の上に築かれたスターの顔というものは、スキャンダルも一つの勲章ともなって、その道での宝ではあるのだ。国の宝、アメリカ映画界での珠玉の宝といえる。
日本ではどうかというと、萩原健一を恐喝の容疑で逮捕するという事件が最近起きたが、30年間の役者生活をいとも簡単にドブに突き落としてしまうのが、旧弊な日本社会の現状といえる。寒空のホームレスを町の美観から追放する国の姿とどこか酷似してみえる。閉塞してしまっている日本の現代映画の弱点がここにあるだろう。映画『透光の樹』1本につき萩原健一の出演料契約金が何と1500万円だったというのには、ちょっと驚いてしまった。ここがアメリカだったら1億5千万円の桁だろうに、降板を理由にわずか1500万円の残り未払い分の750万円をめぐっての訴訟に端を発して、留守番電話に恐喝まがいの萩原健一の声が暴力団の組の名前を並べてあったとか、すったもんだの逮捕劇で、何とも世界の映画スターが集結するアカデミー賞会場とはおよそ縁が遠い俗悪な日本映画界のスキャンダルに、ガックリする。大きい仕事をしない日本映画界の陳腐さを露呈してしまった。演劇や映画文化を国家の一大事業としない、土建国家日本政府の薄寒さばかりが目立つ今日この頃ではある。
テンプターズの頃から知っているグループサウンズ時代が青春でもあったわたしには、ショーケンこと萩原健一がたとえ前科を持った役者であれ、もう少し愛情を持った目で彼を見守ってやるべきではなかったのか。萩原健一の言葉で「プロがアマチュアと仕事をしたのが私のミスでした」と、彼がTVインタビューで述べていたが、これは真実の言葉で、彼が哀れに思えて仕方がなかった。それほど周囲にプロのスタッフ、名監督、日本映画の伝統を受け継ぐ環境に恵まれずにいたかを、如実にあらわしているのであろう。アウトサイダーの萩原健一という個性を理解し得ない現代の映画製作とは、いったい何なのだろう。日本人役者として萩原健一の顔は、歳を重ねて本当にすばらしい上等ないい顔になったと思う。シンガーの長渕剛の顔も、歳を重ねてますますいい顔つきになったが、彼らの本物の顔と艶が見えないようでは、これからも日本映画界は世界に通じないことを暗示しているといえるだろう。
さて、映画『ガス燈』に戻るが、何と言ってもイングリッド・バーグマンについて触れなければ、この映画について語る意味もなくなる。アカデミー賞主演女優賞はこの『ガス燈』だけではない。『追想』(1956)も獲っている。『オリエント急行殺人事件』(1974)ではアカデミー賞助演女優賞を獲得している。出演映画の数々でいろんな賞を獲っている美人名女優であることは言うまでもない。1915年スウェーデン生まれのバーグマンは、2歳の時に母親と死別、12歳の時に父親と死別したようだ。ストックホルムの王立演技学校で演技を学び、かの『カサブランカ』(1942)で一躍人気を博したわけだが、『ガス燈』でのアカデミー賞主演女優賞で文字通りハリウッド名スターとなっている。だが、彼女にもスキャンダルがあって、経歴をたどると、やはりいろんな目にも遭遇しているようだ。67歳で病没するまで、彼女もまた私生活と役者稼業のはざまですんなりと穏やかな人生を送れたわけではなかったようにみえる。『誰が為に鐘は鳴る』(1943)をもう一度観てみたいものである。映画『ガス燈』は当然ながらモノクロなわけだが、第二次世界大戦のさなかでもあるわけで、映画作りが戦争とは無縁な芸術世界で製作され続けていたアメリカとは、やはり映画の歴史が今も昔も一流であることの証拠ということになろうか。
(2005/02/10)
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