シネマ日記 2006

『野菊の如き君なりき』(1955日 92分)
【監督・脚本:木下恵介  原作:伊藤左千夫『野菊の墓』より  主演:有田紀子、田中晋二】

昭和30年の松竹映画である。日本の風景と日本語がまだ抒情的に美しかった頃の名作である。この時期でしか生まれない珠玉の日本映画であり、今も世界に通じる、日本人が日本映画を誇りとしてよい優れた文学作品の映画化であり、その格調の高さは、明治に残る封建的慣習や因習に立ち向かって生きてゆこうとする、若い二人の純愛と自然の美しさに包まれた詩情の豊かさにある。であるがゆえに、民子と政夫の二人が結ばれずして淡い恋心が引き裂かれ、さらに悲運が訪れた時、切なく涙を誘う物語ともなっている。当時の社会背景と人間性の葛藤を描いてゆく、本当の意味で大衆文学作品映画のお手本ともいえるだろう。大衆に溶け込む人情と、それとは逆に相反した農村旧家にわだかまる因循な偏見と揶揄、そして若い二人に襲いかかる離別の結末には、凛とした野草の野菊の如く抒情だけが漂っている。

特にこの映画のすばらしさは、木下恵介の映画の題名『野菊の如き君なりき』でもわかるように、原作にないオリジナルの脚本力が光る。歌人・伊藤左千夫の抒情歌を、60年後の政夫役に託した笠智衆の見事な心温かい回想に合わせて、ふんだんに挿入されてゆく手法がとてもいい。旧家に都合のいい婚礼を負わせられ、悲運なまま若くして病死してしまった民子、思い通りにならなかったことでそれを悔やみ続ける旧家の息子政夫の母親役を演じた杉村春子の改悛する姿が、映画を見終えてゆくところで痛々しく哀切に物語を見事に引き締めている。出戻りの民子が実家で病の床に臥し、息を引き取ってゆくラストシーンでの、胸の上で最期まで大事に握り締めていたものが、政夫からの手紙と竜胆(りんどう)の一枝だとわかって、まるで手折られた野菊の如く民子の命は燃え尽きてしまうところは、何とも切ない。

半世紀前の古びたこの日本映画に英訳・仏訳・伊訳・独訳などを施して、ヨーロッパで今上映してみるといいだろう。多くの外国人が今更ながら感動することだろう。ノスタルジアを捨ててしまった現在の日本では、いくらお金をかけても取り戻すことが出来ない風情と情緒であって、決して製作することが出来ない映画だからだ。殊に美しい日本語を普段の暮らしで欠落させてしまった日本文化の衰退は、無節操にも物欲だけが貪欲になって、便利さと合理的な暮らしにどっぷりと浸ることで、そのまま言語の堕落と精神の荒廃を生み、年齢にあまり関係なく、今や犯罪多発国家に成り下がってしまったからだ。金で何でも買えると思っている人間に、抒情歌など一銭の価値もないと思っているだろうから、情感の品格など何も見えやしないだろうし、備わりもしないことになる。さて、小説家としての伊藤左千夫もいいけれども、歌人としての伊藤左千夫にも実に興味深く思えたので、いずれこの小説『野菊の墓』とは別に映画『野菊の如き君なりき』にだけ詠まれる歌の数々と左千夫の歌集にも次回触れてみたいと思う。映画のなかで、こんなにも美しい日本語と出会えたことはとても幸せであった。

(2006/09/06)

『ブレイブ』(1997米 123分)
【主演・監督・脚本:ジョニー・デップ】   ジョニー・デップの初監督作品である。最近出演の『チャーリーとチョコレート工場』(2005米 監督:ティム・バートン)においても、その時代の社会背景対主人公との関係軸を痛切に表現した手法の映画作りという観点では、作品に明暗はあっても、どちらも一貫して共通している。『ブレイブ』ではネイティブ・アメリカンの人種差別と貧困を赤裸々に描いていると言っていいものだ。この映画の原作はグレゴリー・マクドナルドだが、この映画の内容が本当の史実だとすると、われわれ日本人感覚からすればびっくりする。とても考えられない偏見差別で、それがアメリカの裏社会でもまかり通るのであれば、恐怖以外の何ものでもない。そもそもスナッフ・ビデオというものが、アメリカ社会では本当に存在するのだろうか。本物の人間の死を撮影する動機と目的は、いったい何だろうか。この映画に登場して来る悪役の配役が、これまた『ゴット・ファーザー』(1972米)のマーロン・ブランドというんだから迫力はある。インディアン差別で貧困に喘ぐ若いアパッチの青年族長ラファエル(J・デップ)が、自分の子供2人と妻のために、愛する家族のために自分の命を5万ドルで売る行為と、それが本当に人間の仕事といえるのかどうか、こっそりと家族に内緒で死ぬ仕事を引き受けた日から約束の7日後の朝に、自分が拷問され殺害された後も、そのスナッフ・ビデオの報酬がちゃんと家族のもとに渡されるのを信頼の篤い黒人牧師に見届けて欲しいとする、これらの映画描写が隅々で痛々しい。

殺される前日、建物が傾いた教会で黒人牧師にそのことを告白し懺悔するラファエル、孤独な眼差しの向こうには、人種差別される側の悲哀と運命を受け容れるネイティブ・アメリカンの勇姿と土着の誇りのみが漂うが、この自国の社会的テーマに向かうジョニー・デップの勇気も素晴らしい。また彼自身がそのルーツの血筋をひいているらしいのは興味深い。ジョニー・デップの眼差しは、『シザーハンズ』(1990米 監督:ティム・バートン)以降も『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』(2003米)のユニークで痛快な海賊アドベンチャーにしても、常にどこか冷静に座った眼差しで、人間性をきびしく洞察する瞳をたたえている。この眼差しは『ブレイブ』で黒人牧師を演じたクラレンス・ウイリアムズ三世(『海の上のピアニスト』)の眼差しともどこか特徴が似ていて、映画ではけっして笑うことのない沈着な眼をしている。クラレンス・ウイリアムズ三世はニューヨーク出身、ハーレムでミュージシャン一家に育っていて、ジョニー・デップとも共通の社会的テーマを負うところは大きかったのではなかろうか。自らの存在意義と俳優業との接点がそのままハリウッド映画作りの醍醐味となるところは、無頓着にも親の七光りで俳優に就く甘い日本とは大きく違うところである。

社会的テーマの主張も出来る自由なアメリカ映画界に比べて、主張がしにくい日本映画界はまだまだ完全に自由とは言えない。日本は社会的にも政治的にも差し障りのないコミック系列の映画ばかり製作するから、世界の日本映画と成り得ないのである。ハリウッドが世界の映画になれるのも、そういった社会的テーマにも有名俳優が堂々と真摯に挑むからだ。また女優も大きな仕事をしている。ジュリア・ロバーツの『エリン・ブロコビッチ』などもそうだ。これも素晴らしい映画で社会的テーマを扱いながらも、大衆に溶け込んだ魅力あふれる作品となっている。今回あらためて発見したのは、ジョニー・デップの初監督作品である『ブレイブ』があればこそ、『チャーリーとチョコレート工場』にも出演する動機があったように思えるのだが、今後の彼の出演する映画には、全世界のファンがますます興味をそそられることになるだろう。『ブレイブ』は第53回アカデミー賞作品賞・監督賞を受賞した作品でもある。90年代の失業率が80%以上といわれた180万人ものアメリカ・インディアンの現状は、2006年の今は一体どうなっているのだろうか。黒人差別以上にひどいのは、理由は何だったのだろうか。アメリカ社会の白人たちから見たアジア人の外観だって、本音のところではどうであろう。日本人が黒髪を茶髪にしたり金髪に染めたりするのを、アメリカ社会の白人たちは本音ではどう見ているのだろうか。金髪で彫りの深い容姿端麗の白人に憧れを抱く日本人、そして、その想いを日本アニメにも託して連動する劣等意識、人間の中身よりも外観に縛られる限りにおいては、いい芸術作品というものは生まれて来ないのであるが、それはともかく、『ブレイブ』という映画が作られるアメリカ映画界の土壌は確かに凄いと言える。

(2006/05/01)


『ステルス』(2005米 121分)
【監督:ロブ・コーエン】   レンタル予告で何となく面白そうだったので借りてみたら、やはり度肝を抜かれた。最新CG技術にしろ、このVFX映像にはかなり惹きつけられた。解説によると、このVFX映像は1分間あたりおよそ8000万円もかかる代物とのこと。やはりそうか、と充分うなずける映像効果に仕上げられていて、まるでアトラクション感覚だった。そして何よりストーリーの壮大なスケール感がとても素晴らしい。この全体を包み込む映画感覚というか、基調となるフィーリングがわたしはとても好きだ。よくよく調べてみたら、なんと『トリプルX』(2002米)と同じ監督だったので、さらにびっくり。最初の『トリプルX』はまさにロブ・コーエン監督の本領発揮そのもので、ヴィン・ディーゼルをまさにヴィン・ディーゼルたらしめた究極のスーパーアクション・スターの誕生ともなったわけで、そんなロブ・コーエン監督の映画となれば、それは物凄い迫力の作品であっても何の不思議はない。スタントを必要としないヴィン・ディーゼルがその後の『リディック』(2004米)などの主演の王道をゆくように、ロブ・コーエン監督作品というだけで、監督の異彩を放つ映画作品は今後もわれわれにとってますます楽しみとなってくるのは間違いない。

超音速無人ステルス戦闘機E.D.I.(エディ)は本当に実在するのかどうかは不明だが、映画上では存在している。美しいゴールドにちかい燻し銀のなめらかな機体は、人工知能を搭載して、垂直ジェット発進もする。近未来スカイアクション映画とはいえ、リアルに映像が展開されてゆくので、映画を観る側もまるでステルスに乗っている感覚となる。ステルスから小型ミサイルが発射された時も、われわれの視線はミサイルと一緒に飛んでゆくような感覚となり、そんな空中錯覚に陥る仕掛けは確かに面白い映像技術ではある。これは一体どうやって撮影しているんだろうと思いつつも、どんどん魅惑されてしまうので、実にスリルと迫力を味わうことになる。さて、こんな娯楽映画にもアメリカの巨大な軍需産業と映画産業が必ずどこかで政治的にリンクしているのだろうが、実際に空母や本物の最新鋭ステルスのアクロバット的実写もあるから、どちらの産業も相乗効果が高くなって来るには違いない。それはそれとして、映画が何を描こうが、映画文化の見地としては自由であり、また今後も誰からも束縛されずに自由に映画産業は発展していって欲しいものではある。

少なくとも今回のような『ステルス』は、おそらくアメリカでしか生まれて来ない作品なわけで、むしろ巨額な映画製作費が軍事面よりも映画に投資されることはきっと良いことには違いない。それがかりに軍事宣伝に利用されようともだ。国と映画会社とがリンクしていようが、わたしは少なくとも名作『ディア・ハンター』(1978米)が生まれたアメリカの映画文化には尊敬の念を抱いている。『地獄の黙示録』(1979米)や『プラトーン』(1986米)よりも敬意を抱いている。アメリカにとってベトナム戦争とは何だったのか、『ディア・ハンター』がそのテーマの原点としては最も素直だと思っている。後者2作品には、やや映画表現としては幾ばくかの誇張と作為がみられる。映画製作側は後者2作品とも逆に映画の粉飾を外してよりリアルに表現したと当時は言っていたと思う。いずれにせよ、この優れた2作品もアメリカならではの自らによる反省の観点から立った反戦映画と言っていいだろうし、特に『プラトーン』のテーマ音楽は誰もがどこかで聴いたような曲として、あまりにも有名な悲しいメロディーとして心に響く音楽となっている。

ところが、今の国際社会を見つめて言うならば、現在のイラク戦争を米英がかりに正当化したとしても、現実には毎日が自爆テロという名でイラク国内で惨劇が繰り返されているわけで、まるでベトナム戦争の再来のように泥沼化していることだけは事実なのである。派兵された兵隊の内すでに2000人以上ものアメリカ人が死んでいるし、2万人ともいわれるイラク人の犠牲や諸外国の人々の犠牲は、もはや正気の沙汰ではない。それはイラク復興に向けての治安部隊の犠牲というよりも、イラク自体が今だに狂気が狂気を産む戦時下であるということなのだ。そんな時代のなかで映画『ステルス』は、戦闘機E.D.I.(エディ)が最後に味方の人間を救おうとして、「さようなら」と言って敵のヘリに向かってゆく自爆攻撃のラストシーンがあるけれども、この映画が表現するところの、機械と人間との友情ファンタスティックで締め括られるところは、さすがに映画の救いともなっている。けっして映画が戦争と対局しているわけではないけれども、むしろ映画が時に政治や国家と対峙することで一縷の希望ともなり得るかもしれない。映画はやはり人間になくてはならない文化であろう。文化は人間の気持ちを動かす力があると、わたしなどは信じたいのだが。

(2006/02/09)





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