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12月25日 琵琶湖の月
琵琶湖の西岸を走る湖西線の夜の電車に乗っていたら、走行中に突然車内の電気が消えて真っ暗になってしまったことがある。車内の蛍光ランプが全部消えたおかげで、夜の琵琶湖の湖面がきらりと浮かび上がって見えた。満月にちかい月の明かりが湖面を照らしていたのだ。蒼い闇の湖面を銀色にし、まるで金粉の光の滴(しずく)をひと振り湖面に撒いたかのように、キラキラと光りこぼれて見えた。ほんの10秒か20秒だったか、幻のような夜の風景だったが、再び車内に蛍光ランプが点いたために、それはすぐに見えなくなって、窓ガラスには最早乗客の姿しか映していなかった。その幻想的な一瞬の思い出と堅田の浮御堂が頭の中で合わさって、このようなイラストになってしまった。松林を抜けて湖に突き出た浮御堂が、どこか物寂しくもあり、うつくしくおもえた。
12月14日 小豆島
小豆島といえば、壷井栄の小説『二十四の瞳』となる。もう24、5年も前のことになるが、フェリーで小豆島に渡ったことがある。今のように松竹の「二十四の瞳映画村」などもなく、苗羽小学校田浦分校も昭和46年に廃校となり、その後も放置されたままの、これが『二十四の瞳』の舞台となった分校であるといった案内札さえ無かった頃だったと思う。今のようには観光化していなかったから、その分校の場所さえ地元の人に聞いて、ヒッチで車に乗せてもらって送ってもらったような記憶がある。幼稚園のグラウンドにも満たないような小さなグラウンドと、古めかしい小さな木造校舎がとても印象的だった。小さな分教場の心温まる先生と12人の生徒たちとの、太平洋戦争を挟んだ、切ない物語が、この小豆島を訪ねて初めて実感できたような、そんな気がしたものだった。
12月13日 永平寺/越前幻想
福井県・永平寺、曹洞宗大本山、道元開祖の禅寺。永平寺の本堂であったか、そこから見下ろすと、どんな風景が拡がっていたか、もう20年以上前の記憶だからよく憶えていないが、下のイラストのように山の緑に囲まれていたような、まあ、今となっては幻想の風景にしか現れないが、その幻想風景をイラストにしてみた。道元といえば「正法眼蔵」ということになるが、禅の修業には多言無用であるから、教示など下らぬ講教を耳にするよりは、さながら苦行実践するのみ。さて、永平寺といえば、わたしはどうしても水上勉の小説『越前竹人形』を語らぬわけにはゆかないが、ここ福井県武生市は、その竹細工の名産地かもしれない。わたしもお土産にここの越前竹人形を買って帰ったが、それは今もわたしの本棚に置いてあり、笠を被ってほっそりと着物姿の如く褐色模様の篠竹で出来て、妙に物悲しい姿で立っている。名作『越前竹人形』を読むと、本当に竹のうつくしさや哀れな玉枝の描写に深く感動してしまう。(*2000年頃に描いたイラストの画像は行方不明でスケッチブックも見つからず)
11月28日 旅の終りに
「日本列島夢紀行」も100回を迎え、20世紀のわたしの旅の思い出も本日で終りたいと思います。もうすぐ21世紀の新しい扉が開こうとしています。誰もが何か新しい期待感と希望を抱いて、新年を迎えられることだと思います。希望はいつも未来をみつめて語られますが、本当は過去の積み重ねにこそ、それは裏付けられるものです。いま一生懸命な人だけが、きっと希望の意味を理解していることでしょう。何だか教会の神父が花嫁花婿に言っているみたいですね。来月の12月からは、また新たな企画でスタートしたいと思います。この度の「日本列島夢紀行」は、「夢紀行集」において8月4日以前のものが書き残してありませんでしたので、面白そうな内容のみ選んで、今後は、しばらく「夢紀行集」に少しずつ補足してゆく予定です。この1年足らず拙い紀行文とイラストにお付き合いして頂き、本当にありがとうございました。
11月24日 門司港レトロ(6)
「日本列島夢紀行」100回記念特集「門司港レトロ」の6回目は、周辺風景とある場所から眺めた空間の風景、合わせて3つの風景です。レトロのある町には歴史を感じ、歴史のある町にはまた文化が漂っています。新しい近代ビルが林立するなかで、失いかけたものを大切に保存してゆこうとする門司市民の熱い想いは、訪れる観光客のこころにふっと安らぎを与え、また門司市民のくつろぎの場ともなっているようです。一日ずっとレトロ公園にいても飽きないはずです。
11月21日 門司港レトロ(5)
今日でこの「日本列島夢紀行」は101回目を迎えます。101回目と言ったら、つい昔のTVドラマ「101回目のプロポーズ」を懐かしく思い出すのですが、浅野温子と武田鉄矢の強烈な個性のぶつかり合いで、大変おかしく全部その連ドラを見てしまったものでした。今はさしづめ松嶋菜々子と堤真一の「やまとなでしこ」の連ドラでしょうか。それにしても101回目とは、何だか、あらためて旅のはじまりのような、で、本日の門司港レトロは、船、海峡、船旅に視点を向けてみました。
11月17日 門司港レトロ(4)
今日でこの「日本列島夢紀行」は100回目を迎えます。今年の2月からイラスト付きで始めて、更新材料としてこのコーナーを設けたのですが、よかったのやらわるかったのやら判りませんけれども、イラストにもいつか知らぬ間に次第に熱が入ってしまい、今度は製作に大変時間がかかるようになって、正直のところ負担さえ感じるようになっていました。なかなか時間が取れず、何度も壁にぶつかっては更新を続けてまいりました。しかし、振り返ってみると、こころの旅も100回目となり、日本全国を自分がずいぶんと歩いて来たんだなと実感します。とりあえず今は、日本列島夢紀行の100回記念ということで、北九州市の門司港レトロをしばらく特集したいと思います。今回は北九州市旧門司税関を追加して、写真のページも100回目の記念らしく多めに増やしてみました。
11月14日 門司港レトロ(3)
日本列島夢紀行 100回記念特集ということで、ただいま北九州市の門司港レトロを写真で特集しています。前回の北九州市立国際友好記念図書館に引き続き、今回は北九州市旧門司三井倶楽部と北九州市旧大阪商船の建物を追加しました。解説文と合わせてお楽しみください。門司港レトロ・シリーズは今後とも全写真を保存してゆきます。縮小写真をクリックして頂ければ、写真は拡大します。なお、下の縮小写真からは、一旦100回記念特集の全画面ページにリンクされています。そこから拡大してご覧になれます。
11月10日 門司港レトロ(2)
日本列島夢紀行 100回記念特集ということで、ただいま北九州市の門司港レトロを写真で特集しています。前回のJR門司港駅に引き続き、今回は門司港レトロの目玉ともいうべき北九州市立国際友好記念図書館を追加しました。解説文と合わせてお楽しみください。門司港レトロ・シリーズは今後とも全写真を保存してゆきます。縮小写真をクリックして頂ければ、写真は拡大します。なお、下の縮小写真からは、一旦100回記念特集の全画面ページにリンクされています。そこから拡大してご覧になれます。
11月 7日 門司港レトロ(1)
この「日本列島夢紀行」シリーズもあと3回で100回目となるが、イラストをゆっくり描く時間というものがここ難しくなって来ており、また下手なイラストよりも写真のほうがわかりやすいという点から、自分が撮った写真も交えてゆくことにした。こころの旅も100回までは何とか続けたいという一心で書いて来たが、風景をスケッチするというよりも、出会った風景のなかに残してきた想いやこころをスケッチしてみたかったのである。今回は100回記念を前にして北九州市の門司港レトロを特集します。その1回目はJR門司港駅です。駅の前の人だかりは、赤い服を着た大道芸人の芸を見ている人達です。
10月31日 紫匂ひ(志野茶碗)
志野茶碗を描いてみた。岐阜県の志野といえば、やはり加藤唐九郎だろうか。雨もよいの柳ヶ瀬の目抜き通りをいちど歩いたことがある。飛騨高山に行く途中だったかもしれない。陶工・加藤唐九郎の名品「紫匂ひ」は、作家の立原正秋が生前に名付けたもの。実際の茶碗の色合いは、下のスケッチよりもっと渋く地味である。白い釉薬が雪のようにかかり、高台はとても低い。己れを主張しない志野のあたたかみが風雅だ。立原は「いびつ」という形が好きな文士である。いびつな形の日本美をこよなく愛した小説家だった。小説『残りの雪』は立原文学の中で、特に愛読した作品の一冊だった。
10月20日 仁清
1984年9月、宮崎県総合博物館で東京国立博物館巡回展「日本の美」と題して、縄文から江戸時代までのさまざまな美術品が出展され、その中で野々村仁清の「色絵牡丹文水指」を、今回はスケッチしてみた。金や金泥の色合いを配した仁清独特の風雅が漂っているわけだが、実を言うと、これを見たくて宮崎まで行って来たわけではない。この催しの前に8月に開催された「キスリング展」を観たくて、その年、宮崎まで行ったのだった。その当時、わたしにとって川端康成が愛好し所蔵していたキスリングの作品というものを、自分の眼で実際に見ておきたかったのである。
10月17日 宗隣寺・竜心庭
山口県宇部市の宗隣寺、初めて故郷のものを紹介したような気がする。けっして大振りの寺ではないが、このふるさとの寺にはちょっとした思い入れがある。わたしには晩年になったら生涯の夢として、夫婦でみちのくの旅をしたいと思っている。この日本列島夢紀行で唯一そこだけが、描かれていない。岩手県平泉の毛越寺(もうつじ)を老夫婦になったらそこを訪れるのが夢なのである。中尊寺もいいが、ここの干潟様式の庭園はおそらく日本一の名庭のはずである。その小振りみたいなものが、ここ宇部にもあるのだ。それをスケッチしてみた。
10月13日 豊浦コスモスまつり
山口県豊浦町のリフレッシュパーク豊浦、ここは今コスモスまつりで100万本のコスモスの花が満開で見頃である。「豊浦コスモスまつり」(10/07~10/15)には今月9日の体育の日に行って来た。見渡せば、赤紫色とピンクと白色の3種類がほとんどのように見えたのだが、実際には11種類の品種が咲いているらしい。そこで、コスモス畑の真ん中で、その品種をメモって来た。ピコティー、ソナタ、アーリー、ディアボロ、シーシェル、豊浦コスモス、ベルサイユ、イエローガーデン、センセイション、オレンジフレアー、サンライズ。よく見ると色合いがみんな違い、品種の名前だけでも楽しくて高貴だ。
10月10日 鞍馬の火祭
京都洛北の鞍馬、叡山電鉄鞍馬駅下車。鞍馬寺本殿より手前の由岐神社、と言ってもずいぶん高い所にある。毎年10月22日になると、そこで火祭が行われる。あまりにも有名な鞍馬の火祭。粋な男衆が大きな松明を抱いて鞍馬山を駆け巡る勇壮な火祭だ。300本の火が夜の闇を裂いて山をあかあかと染め上げる豪快な行事だ。京都三大奇祭の一つである。鞍馬の山を訪れると、何か気分が落ち着いたものだ。巨大な杉の森に囲まれて、大自然の名残をそのまま保っているところだ。今年もその火祭の日が近付いた。
10月 5日 長門峡
山口県阿東町阿武川上流にある美しい渓谷、長門峡。四季を通じて渓谷美が変わる。渓流に沿って遊歩道が5Kmも続く。歩いてゆくのはいいが往復しなければならないので時間帯を考えて歩かないと、いつの間にか日がとっぷりと暮れてしまうことにもなる。渓谷の日暮れは平野部と違って早くやって来る。これからの紅葉は川面にも映えて一段と美しくなって来るので、ついつい奥まで歩きそうになるが、晴れた昼間のひんやりとしたうまい空気を吸いながら、浅瀬の川べりでおむすびでも食べると最高である。
10月 2日 三瓶山
島根県・三瓶山(さんべさん)、山陰で有名な山は大山の他に、この三瓶山がある。男三瓶(1126m)を主峰にして女三瓶、子三瓶、孫三瓶など七つの峰が並んでいる。ブナの林道を抜けてゆくと、やがてゆったりとした山麓の高原に辿り着く。これからの季節、道中の紅葉は見逃せないドライブ・コースとなる。手前の池に三瓶山が映ったところを何枚か写真に撮ったことがあり、そこからの眺めのイメージをスケッチしてみた。
9月28日 苔寺
京都・西芳寺、通称名の苔寺のほうが親しみがある。昔は拝観料¥50で誰でも好きな時に入れたが、現在は拝観手続の申込み予約制で「拝観志納」とかの名目で¥3000以上のお金を払わないと拝観できないようだ。いつ頃からか誰か寺の風紀を乱す者でもいたのだろうか。それとも庭が傷んでしまったのだろうか。一般庶民が出入れするには、もはや大変敷居の高い寺となっている。まるで凡俗と高僧の差別感でもあるようだ。観光で訪れる人には遠慮してもらいたいのだろうか。高僧とは、すなわち大衆よりも腰が低く、苦行実践に励む修行僧をさす。衒学と講経をする者は、ただの凡人にすぎない。
9月25日 宍道湖
島根県の宍道湖、ここでどうしても日没を見てみたいと思い、日が暮れるのを待ってみた。湖面中央に浮かぶ嫁ヶ島、松林が湖面すれすれに映って見える不思議な小さな島だ。その島の向こうに夕日がやがて沈もうとしている。古代から変わらぬ風景なのか、出雲の国の湖と湖岸の山、空、かわいらしい島影、夕照は湖面を金色に溶かし、ゆっくりと時間をかけて日輪は輝いていった。
9月21日 エミール・ガレ(2)
下関市立美術館でのエミール・ガレ展その2。これは一言でガラス製の花器ということだけれども、現物を眼の前にして、じっくりと観察すると、とてももったいなくて花生けに使える代物ではない。ガラス細工の極致で、その精巧な植物の色合いや葉脈をここまで神経質に溶融装着技法を施し、オレンジ色の光を放つようにプラチナ箔を嵌めてレリーフさせるこだわりとは、いったい何なのだろうか。その絶品たる幻想的なグラデーションをスケッチしてみた。
9月18日 エミール・ガレ
下関市立美術館でエミール・ガレ展を観て来た。いったいガレの世界とは、何だったのだろう。あまりにも細密なガラスの造形美術の奥にひそむものは、まさに19世紀末象徴主義のフランス芸術そのものではないか。ボードレールがいてランボーがいる、ドガもモネもいて、実にヒューマンなデカダンスの坩堝(るつぼ)のなかで生まれた傑作ばかりだった。ガレの作品にはもっと横から透過できるだけの照明配慮をしなければ、本当のガレのよさは鑑賞者には伝わらない。光を豊かに与えることで、その奥に広がる美しい空や雲が見え、風を感じることができるし、トンボなどの生き物や、ヒトヨタケ(茸)といった植物などの生命体の感触や神秘さを、もっと妖しく感じることができるだろう。
9月14日 ハウステンボス(2)
長崎のハウステンボス、なかでも特に感動したのはギヤマン・ミュージアムである。ガラス工芸というものに、所詮は工芸品だと高を括っていたところ、一歩建物の中に入って行き、フランス製の1840年製作とされる豪華絢爛なシャンデリアに灯かりが点されているのを見て、これはスゴイと思い、どんどん上の階に進み、黄金の間、鏡の間、そして3階の薄暗い展示室に辿り着いたときには、この歴史の重みを感じさせる精緻な美術品の数々のあでやかさや見事な職人技は、わたしの固定観念をとっくに粉砕してしまっていた。下のイラストはその中から、紅い光を放ったチェコ(ボヘミア)の金彩草花文蓋付ゴブレット(19世紀)を描いてみた。
9月11日 上高地
いったい上高地へは何回ほど足を運んだのだろうか。春、夏、秋の記憶があるから3回以上は訪れていることになる。冬にも自分の車で赴いたことがあったが、途中で通行止めになっていたので引き返した。冬は積雪で上高地は閉鎖されるのだということが、後でわかった。山小屋にも誰もいなくなるのだ。夏の観光シーズンは人込みが絶えないので、シーズン・オフの新緑の頃や紅葉の季節を楽しむといいかもしれない。イラストは大正池を描いてみた。自然の豊かな美しい上高地の風景は、日本人の大切な遺産である。この風土こそが日本文学を生む原点だともいえる。
9月 7日 清水寺
京都の清水寺、何とも複雑な建築物ではある。イラストを描いてみて、あらためてよくわかる。しかし、この建物を見て、それが清水寺であるということは、誰にもすぐ判るほど個性的な建物だということなのだろう。寺であったことさえも忘れそうなほど、実に観光スポットともなっている。清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、とよく言うけれど、実際けっこう高いから、度胸が要ることの比喩に使用するには、まさにうってつけの風流な言葉ではある。それにしても清水寺までの三年坂、清水坂を、わたしは仕事で一体どれほど歩いたことか、今にしてみれば本当に涙ぐましくて懐かしいかぎりだ。
9月 4日 若草山
奈良の若草山、手前には興福寺の五重塔と東大寺のひときわ大きな伽藍の屋根が見える。美しい奈良の都をホテルの一室から眺めたときの風景画を描いてみた。朝焼けの一瞬が金色に染まる頃は、まだ町に霞がかかり眠ったままである。公園の鹿たちはもう起きているかもしれない。ここの鹿たちは鹿煎餅に飢えていたが、今でもお行儀が悪いのだろうか。鹿の放し飼いは風流のようで、実際は野卑だ。しかし、鹿がいないとやはり何だか公園らしくないから、歴史の重みとは大したものではある。
8月30日 竜安寺
京都の竜安寺(りょうあんじ・RYOANJI)が日本の石庭を代表する寺であることは、誰もが知っている。世界的にも有名でさえある。その分、観光客も半端じゃない。特に海外からの観光客には、たいそう人気を博している。日本人のわれわれが、ではどれほどの感銘を受けているかといえば、別段さほど珍しくもないので、ごく当たり前のようにみんなには浸透している枯山水の景色となっている。ただ、国内の寺の石庭と大きく違うところは、まわりの地味な油土塀の品格にある。室町末期の美意識が、実に格調高いものであったことが窺えることだ。油土塀があるから、石庭が美しく映えてみえるのだ。
8月28日 高野山
高野山といえば、空海ということになるのだが、やはり一番感心したのは、霊宝館であったか、巨大な曼荼羅図がいくつか掛けてあったが、中でも製作が平安時代といわれる阿弥陀聖衆来迎図は国宝で、いかにも風格が漂っていた。鮮やかなる色彩が、古色蒼然とした世界で、いまだ金と朱のけざやかなる名残をとどめていた。空海が唐からもたらせたものは、最澄よりもかなり濃密な写経などの膨大なる数と、新たなる真言密教の修行道場であるが、「遍照発揮性霊集」などをよむと、彼が詩人でもあったことがよくわかる。
8月25日 高桐院
京都紫野大徳寺境内の高桐院、さりげない自然石を敷き詰めた小さな参道をまっすぐに歩いてゆくと、正面には唐門の円窓を透かした障子が見え、そこはすでに静寂な高桐院のたたずまいに包まれている。四季折々の客殿南庭をのぞむのが唯一の楽しみではあった。楓の紅葉をめでる風趣も、あるいは新緑の若葉が目にしみる春、ひらひらと雪の舞う雪景色など、ここでぼんやりと過ごすのがわたしは大好きだった。目的を求めず、できるだけ時間を無為に過ごす。ただそれだけで充分であった。
8月23日 大沼湖畔(2)
北海道の大沼湖畔、旅の始まりはここから始まった。東京から網走までの片道切符で途中下車しながら、いろんな風景と出会っていった。北海道の大沼湖畔に佇んだとき、そのあまりの美しさに呆然としたものだった。湖畔で野宿し、寝袋で寝た。7月上旬の季節とはいえ、北海道も場所によってはまだストーブを焚いている所もあった。黎明の駒ヶ岳を見た時、わたしの人生は変わった。この世の中にこれほど美しい秀麗な山があっていいのだろうかと、わたしは呆然となった。赤く染まってゆく駒ヶ岳の神秘的な夜明けと、湖の美しい静寂にもわたしは言葉を失ってしまったのだった。
8月21日 生駒高原
鹿児島と宮崎の県境に位置する韓国岳(からくにだけ)の山麓に拡がる、えびの高原を満喫した後は、宮崎の小林へ抜ける途中に生駒高原があるので、花の季節に旅すると、いちめん花々の丘陵に遭遇するので必見だ。春にはいちめん黄色の菜の花が、秋にはいちめんコスモスの花が色とりどりに咲き乱れる。下のイラストはそんなコスモスの花々が50万本は咲き乱れると言われる生駒高原を描いてみた。9月の下旬から見頃になるので、晴れた初秋の日にドライブすると、きっと気持ちがいいだろう。この頃は高速道路の宮崎自動車道も出来ているので小林インターからが近い。
8月22日 近江幻想~石山寺
(7月3日に掲載したもので、こんなことも書いたのかと笑えたので、追記して書き残して置くことにした。) 滋賀県大津市・石山寺、巨岩で石積みされたような高い場所に建てられた古刹、といった風情の寺。老木もたくさんある。本堂の廊下からは近江八景の一つとして、石山の秋月が挙げられる。近くには蜆(シジミ)で有名な瀬田川が流れているが、瀬田の夕照も近江八景の一つ。わたしは仕事でよく大津の町に来ることがあったが、瀬田川のそばを通るたびに「ああ、今月も滋賀刑務所に行くんだ」と感慨深いものをいつも味わったものだった。仕事で刑務所の厨房まで入って行くのである。囚人が調理する刑務所内の厨房まで、実にいくつものドアがあって、その一つ一つに鍵を開けてはまたロックし、やっと長い十字の廊下に出ると、その中央に立てば、ここが脱走を防ぐ迷路の中央点だとわかる。廊下の先にはどの方角にも等身大の鏡があり、窓から見える芝生の植木までまったく同じで、東西南北どの方角も同じような風景なのだ。それから、囚人が作った料理をまず初めに味見をするのは、と言うより毒味なのだが、その務めは所長であった。つまり、所長の務めとは、囚人たちを信じることから始まっていた。
8月17日 高山寺
京都栂尾・高山寺、夏のあいだはどこへ行っても暑い。暑い暑いと言っていたのでは、この寺の境内のどこかで樹上座禅をしていた鎌倉時代の開山上人こと、明恵上人から、いかにも「喝!」を入れられそうである。石水院の建物は国宝であるが、この名前が好きでわたしはよく春夏秋冬の高山寺を訪ねたものだった。雪深い京都の寺は、どこを訪ねても絵になるから不思議である。高山寺には「樹上座禅像」の国宝もあれば、「鳥獣戯画四巻」の国宝もある。訪れればいろんなものに気がつく。運慶作といわれる愛らしい仔犬の置物も、よくよく眺めれば、これはやっぱり現代人には彫れないものだと気がつく。蝉時雨の高山寺で無我になれれば、きっと暑くもないのだろう。
8月14日 砂浜の美術展
(7月31日に取り上げたものを抜粋し、この時期のイベントとして紹介したく、書き留めておくことにした。) 福岡県・芦屋海水浴場では毎年8月になると、「砂浜の美術展」を開催しているようだ。一体どういう美術展なのだろうと興味深く、1997年度の「砂浜の美術展」を見に訪ねたことがある。下のイラストはわたしがイメージして描いたものなので実際のものとは違っているが、訪れたその年の巨大なメイン砂像は、中央の砂浜の特設ステージに「ワシリー大聖堂」「蒸気船ミシガン」「アラビアンナイト」の3つが作られていた。もちろん砂浜の他の場所にもたくさんの砂像が作られていた。夜になると会場はライトアップされて、実にファンタスティックになる。レーザー光線と音楽と照明が織り成す幻想世界へ導いてくれる。
砂浜の美術展 2000 |
芦屋町産業観光課商工観光係/芦屋町観光協会 |
会期: 平成12年8月25日(金)~29日(火)
時間: AM10:00~PM9:30
場所: 芦屋海水浴場(福岡県遠賀郡芦屋町) |
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8月 9日 円通寺(2)
京都市左京区岩倉幡枝町の円通寺については、今年の3月20日にも少し書いた。比叡山がこの寺の庭園の借景になっていることは有名であるが、京都の町はあれから一体どうなっていったのだろうかと、ときどき心配になって思い浮かべることがある。生垣の向こうに竹林を育てて、ビルや文化住宅を隠しているわけだけれども、町の景観を守るのか、マンションやらビルを次々に建てて景気をよくしてゆくべきなのか、京都市民のあいだで意見が対立しているようだが、そのことにも心が痛むが、もっと衝撃的だったのは、今年1月に河原町の老舗書店だった駸々堂が倒産したことだった。関西を拠点にした書店チェーンの大型倒産だ。つくづくと時代の移り変わりの激しさを感じてしまう。
8月 4日 祇王寺
京都・祇王寺、草葺きの清楚な山門を描いてみた。草庵の祇王寺、と言っても、とても小さな尼寺の面影を残すのみで、いかにも世俗から離れた嵯峨野の山里のなかにある。平家物語をたどってゆくと、祇王・祇女の姉妹とその母の刀自、さらには同じような白拍子の運命を背負った仏御前の、合わせて4人の簡素で慎み深い仏門の暮らしが、ほんのりと彷彿として来そうな草庵ではある。平清盛の寵愛を受けながらも、男の身勝手さに屈服しなければならなかったその時代の女人の悲哀と無常は、美しくもあり苛酷ともいえる。安住の地を求め都から離れて廃寺を終の棲家とする暮らしに、竹林と楓と時雨はよく似合う。新緑、紅葉、雪月花という風趣は、古都の雅びである。「仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ」
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