古川卓也(ツイッター)ホーム
 水辺の秋  ~ 真締川(まじめがわ)のほとりより
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ツイッターで1回の動画アップ適切容量は、どうやら10MB前後以下のようで、それ以上の動画容量はツイッターには向かないかもしれない。最大容量が512MBまでなので、適時、動画が増えていったら、不要と感じたものは少しずつ削除したほうが望ましいのだろう。1回の再生時間も140秒(2分020秒)以内なので、動画付きの理想的なツイートを続けるなら、1本あたり10MB前後以下にすれば50回分はアップできることになる。ただの「おしゃべりだけ」なら無限大にも近い。イラストや画像だけでもずいぶん発信できる。ツイッターを始めて、まだ1ヶ月半にもならないが、ツイッターというツールはなかなか面白いことがよくわかって来た。

今回、上の自作動画は45MBちかい容量があるので、こちらのホームページでアップすることにした。
それにしても、自分が撮影した動画はなかなか面白い。これまでは一眼レフで撮影した単一画像ばかりだったが、動画はちょっとした1分ばかりのものでも、テーマにこだわれば、動く被写体は静止画よりも遥かに面白い。額縁のなかで、あるいは新聞のなかの写真が動き出すようなもので、動き出す芸術作品のようなものだ。わたしが興味深いものは、動く美しい自然であったり、日常の穏やかに動いてゆく平凡な光景である。その意味で「作為」のあるものは度外視したい。平凡でありながら、すばらしい非凡に出会いたいだけなのだ。つまんない日常でも、実はそれがいかに素晴らしいことであるか、そこを表現したい。ユーザーが退屈を求めないというのであれば、そういう人は刺激的な映画やテーマパークのアトラクションで享受すればいいだけのことだ。ただ目立ちたいだけの、バカの自己顕示欲には陥りたくない。動機がPV数増のために男を誘うような画像で収入を得るためとか、ルッキズム(lookism)で外見をプリクラのように加工したいとか、外見至上主義の外見差別を平気で行なう者たちには、わたしはまったく興味がないのだ。加工アプリで仮想顔面を楽しみたい欲求とは、単に娯楽とゲーム感覚の領域内にすぎない。けっして罪ではないが、中学生の幼稚な遊びと変わらない。

遊び心はとても大事だ。だが、大人になれば、与えられた人生に、いかに多くの感動の「たからもの」があらゆる場所に満ち溢れているかを知ることになるので、与えられた年齢と時間は有意義に過ごしていったほうが賢明だ。その感動を掴むために日々の苦しさや悲しみは後に必ず報われることになるのは間違いない。30になり40になり、時を経ると、やがて若さも時間もカネで買えないことを誰もが実感することになる。10代も20代も一度きりの時間であり、二度とは戻らないのである。

それにしてもだ。化粧やメイクやコスプレ姿は女性の特権であるから、これはいいとしても、公的な場所で現われるコスプレイヤーから許諾を得てこちらが撮影したにもかかわらず、個人で画像を楽しむだけなら何ら問題はないが、SNSやHPにそれらの画像をそのままアップするのは当人の許可が要るとのことで、そのままアップするのは「無断転載」だとしてルール違反となる現在のルールとやらは、過剰なルッキズムの典型といえるだろう。そもそも「無断転載」の根底には著作権から生じているものなのだ。撮影される側に著作権などというものはない。撮影した側に著作権がある。撮影される側に何らかの権利があるとするなら、それは肖像権のみである。公的な行事、公的な場所に自らの意思で登場して来るのであるから、本当は肖像権の権利さえ無い。肖像権を訴えるのであれば、公的な行事や公的な場所に現われてはいけない。まして目立つようなコスプレ姿を撮影されても仕方がないのだ。

しかもSNSやHPに掲載するなら、当人の加工処理完成の許諾を得ろとする厚かましい傲慢さは、不愉快であり、撮影原版である著作権への侵害であり、コスプレ元のアニメ漫画の原画著作権への侵害にもつながっている。衣裳販売する側にも著作権を問われることになる。後で加工しなければならないような面構えで公的な場所に来るんじゃない、とわたしは思うが、まあ、女の(さが)だから仕方がないのだろうけど、この思い上がった無断転載ルールは、おそらく日本という法治国家以外の世界で発生しているルッキズム信奉の教団世界の集団なのであろう。これはこれで、ほくそ笑む親もいるだろうが、嘆く親の顔もみえてくる。どんなに実の子の素顔を愛していたか、若いルッキズム信者たちにはわかるまい。罪深い、人間性の無い、差別主義、外見主義のルッキズムは、そのまま日本社会を反映しているようにもおもえる。

そのようなルッキズム集団に、わたしが撮影した著作権を譲ることもないし、今後ともそのようなコスプレイヤーを撮影することもない。わたしが撮影する被写体の画角は、よほどのものでなければシャッターを押すこともないし、スマホで簡単に撮影できる画像レベルと一緒にしてほしくない。自分で言うのもおこがましいかもしれないが、まったく比較にならない。先ず画像の質感からして異なる。また、テーマも異なる。記念撮影のようなスマホと違って、学術的な仏像撮影だったり、撮影の背後には歴史観や文化財意識も持ったり、さまざまなこだわりのもと撮影している。よほどの光景や被写体でないかぎり、シャッターは押さない。伊達に何十万枚も撮影してきたわけではない。それ以上に世界の写真家たちの有能な写真も観て来ているのだ。国内外を問わずリスペクトしている写真家は多い。わたしの写真には、さらにそこに芸術性にも拘泥が込められている。つまりは娯楽的でありながら、けっして奇抜さは取り入れず、人間性の有無にも厳しい眼を注いでいるのだ。文学的要素と美術的要素と、格調高い光と色合いにも意識を込めているものなのだ。ある意味、一つ一つが人生の結晶といっていいものだ。そんな自分の目利きのこだわりを、わたしは安易に安く売らない。

知名度本位の偏った地デジのTVメディアといい、学歴を問う肩書社会といい、あらゆる受賞歴を盲目的に優先する肩書社会といい、外見が華やかで美しいものにやたら迎合する風潮は、実に封建的で、格差社会の構図をいまだに露呈している。そこに金銭がらみの汚職圧力もあるのだから、日本経済も30年の長きにわたって沈滞したままとなる。弱い立場の者にやさしくない冷たい国家は、いずれ墓穴を掘ることになるであろう。裏で財務省が操るような、国民の血税を吸い上げるような、建前ばかりを標榜する心ない社会づくりには全くうんざりする。これでは、モラルの欠けた人間がますます社会に跋扈(ばっこ)するばかりである。それゆえに、今のわたしの眼は、罪のない、いとしいものにだけ撮影がしたくなるのだ。

(2022/12/09)

文・動画 : 古川卓也
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