「もうどこにも行かない。行かないじゃなくて、行けない?」
「だな」と柊芳雄はニンマリと笑みを浮かべて、彼女の左上腕を捕まえた。永いあいだ沈黙し続けて来たが、今日だけは言わなければならないと思った。灯台に背を凭れてうつむいている彼女は、そんな芳雄にしおらしく観念したようだった。
「どっちみち、逃げられないじゃん」
「来た場所が悪かったな」
「ねえ。教えてよ。おカネと正義、どっちが大事?」
「正義に決まってら。当たり前のことを聞くなよ」
「じゃあ、わたしのやったことは、正しかったんだ」
「だな。お前は悪くねえ。ハメた奴らが悪いのさ。ずっとこれまで黙ってたけど、馬鹿正直じゃあ、この業界、生きられねェつんの。一体どんだけケガすりゃいいんだよ。何回脳震盪を起こしゃ済むんだよ。これまで女子プロレスラー木村花の試合、ぜーんぶ観て来たけどさ、もう心身ボロボロじゃねえか。バイク事故で死んじゃった俺のとこへ、軽々しく来るんじゃねえ。ここが地獄だったら花とは会えてねえぞ。オレが立派に天国にいたからいいようなもんだけどさ。人に騙されても、世間を騙しちゃいけねえ。なあ花、これ以上痛い目に遭わないでくれ。もう遅いけどな」
「わかった。よしおの言う通りにする」と花は、灯台の真ん中あたりから下界を見下ろした。膝から下が雲に覆われて何も見えなかった。芳雄の握った手が、いつまでも温かった。
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短編小説集『ブルーベリーの王子さま』

(2020/10/20)

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