Alice Through the Looking Glass  2016 Walt Disney Pictures
 

文字サイズの変更  | | |  


シネマ日記 2017

文・ 古川卓也

『君の名は』(1953-1954年日 第一部:127分 第二部:120分 第三部:124分)
主演:佐田啓二  岸惠子   監督:大庭秀雄   脚本:柳井隆雄   原作:菊田一夫

悲しいかなこれほどの映画がモノクロとは。これがもしカラー映画であったなら、どんなに凄くてこんなお宝映画は世界広しといえども唯一無二の名品といえただろう。大衆映画の名作中の名作、最高峰にして比類をみない傑作といえただろう。当時の摩周湖の湖面の色がしのばれるほど、どんなにキレイであったか。北から南まで64年前の日本各地を代表する絶景風景がロケ地として登場して来るが、ロケ地もさることながら佐渡島における港や海岸の風情あふれた情感の豊かさ、そして都会で寄り添う終戦直後のロケーションは実にすばらしいものだった。空襲を受けて東京が荒廃してゆく姿を当時の映画技術で再現した戦禍の様子や、爆撃音に苛まれながら互いに必死に生きてゆこうとする人々の温情には、その時代でなければ収録できない映像の数々であった。映画には溢れんばかりのちりばめられたこまやかな人間ドラマが淡々と描かれ、一方で信頼と憎悪と世相の虚実を赤裸々に勇敢にも描いていた。現代のような打算と価値観とは大きく違うところでもある。人間が生きてゆくために背負ってゆかなければならぬそれぞれの宿命に翻弄されながらも、人は日常生活で果たしてどんな人間に出会うかで大きく左右されてゆくのもまた事実である。戦火のなかで後宮春樹(佐田啓二)と出会う氏家真知子(岸惠子)の運命もそんな境遇の物語だった。美しい言葉遣いのセリフはこの時代の特徴であり、現代の映画にはないものである。日本語の言葉遣いの衰退は、そのまま映画の質までをも衰退させるものである。言語力の低下は脚本力の低下でもあり、上質感とは程遠いものとなるであろう。

貧しさと豊かさにも家系的な類いのものと、育った環境的なものと、人間味のない精神の貧困さや生まれつきの生来の能力的なもの排他的なもの、特に家柄にこだわる虚勢の血筋にはうんざりもするが、それと対峙する後宮春樹の教養だったり男前には、当時、多くの女性ファンの心をつかんだであろう。今の芸能界ならイケメンとも呼ぶが、外観だけで案外と無学なのには幻滅する。知識が無いのではなく、人を思い遣る教養の乏しさに呆れてしまうのだ。さて、実を言うと、アニメ映画『君の名は。』(2016)と比較するために、今回あらためて古い映画『君の名は』(1953-1954)を先にレンタルDVDで鑑賞したのだが、もちろんそれから1週間後にアニメ『君の名は。』もレンタルBDで鑑賞させてもらった。なぜ、そんなに世の中はこのアニメに夢中なのかを知りたかったわけだが、物語の異なる二つの映画を比較しても意味がないかもしれないが、映画のタイトルを別に同名にしてもいいようなものをなぜ「君の名は」の後ろにアニメ側は「。」を入れているのか、それが知りたかったのもあった。こちらのアニメ映画の監督・脚本・原作者である新海誠氏のことは全く知らないのだが、日本国内ではかなり有名なアニメ映画監督らしくて、今回初めて新海誠監督の作品を鑑賞させてもらったことにもなる。アニメ映画『君の名は。』の映画製作も結構大変ではなかったかと推察される。

こちらのシネマ日記には感動したものにしか執筆しないことにしているのだが、『君の名は』VS『君の名は。』では、『君の名は』のほうが圧倒的に面白かったので、この古い映画『君の名は』を自然と書き進めているわけである。アニメ映画『君の名は。』は観終わって、これは子供向けの映画だと実感。いまさら当たり前なことなのだが、いい齢したオジサンが本気で観るような代物ではなかった。アニメは所詮アニメなので、子供向けの絵本と変わらない感じがした。子供連れか家族で鑑賞するか、10代かせいぜい20代の若者たちが対象ではなかろうか。小学生もスマホを持つ時代なので、とてもオジサンが本気で観るようなものではないだろうし、ストーリーもやや幼稚。まだ、ハリウッド・アニメのほうが大人も充分に楽しめる映画は多いだろう。根幹のテーマとなるものが希薄なので、正直だらしかった。しかし、中身はともかく映像はすばらしかった。せっかくブルーレイでオーディオ・ホームシアター鑑賞したのに、音もイマイチだったのは残念。映画館で鑑賞し、わが家のオーディオ・ホームシアターでも鑑賞した『ゴースト・イン・ザ・シェル』(2017)のような音質や音響がいいと、もっと楽しめたような気もする。それと、宮水神社の本殿で美しい巫女2人が口噛み酒を奉納する場面があるが、この描写は原始的な汚穢と不浄を帯びるので、意表を突く奇抜を狙ったのか、この作為を導入したことで、この映画のすべてを台無しにしている。尾籠な所作はなるたけ省いてほしい。興行収入を計算しての映画効果かもしれないが、映画ファンの一人として少なくとも私はこの作品を好きになれない。非科学的な要素も多分にある。昔のTVドラマだったか映画だったか、男と女が入れ替わる描写があったが、この発想も陳腐すぎる。こんなに美しい映像なのに、中身にリアリティーを欠いている。映画はどんなにフィクションであっても、リアリティーに欠けるとガッカリする。そして作品の題名『君の名は。』の「。」の意図についてだが、どうでもいい「。」で、同名作品にしたくはなかったから「。」でも付けたのであろう。売れるアニメ監督は何でも好きにできるようだ。自らの才能を貶めるようなことはあまりしないほうがいいと思うのだが、まあ、どうでもいいか。『君の名は。』評価はこれくらいにしておこう。

さて、話は1953-1954年製作の映画『君の名は』に戻る。終戦直後に焼け野原となってしまった大地。何も無い若い女が生きてゆくために過酷な試練が待ち構えている廃墟の都会。そんな都会の片隅で何とか明るく生きてゆこうとする商売女たちをやさしく見守る笠智衆の役どころにも情感はあふれる。そこへ紛れ込むかのような雑誌記者の後宮春樹もまた彼女たちを蔑むことは決してしないのもいい。悪い時代が彼女たちを不幸にさせているとも言う。『君の名は』は通俗な恋愛ドラマかメロドラマにしかみない傾向があるが、ドラマの根底には反戦への意思や日本の古い慣習への抵抗もある。男たちが生きてゆくためにいろんな職業が描かれているのもいい。そして何より家柄のしきたりに悩む氏家真知子の苦悩が、このメロドラマを長々と本格化させてるところが面白い。数寄屋橋での慕情から始まり、半年後ごと互いにまだ生きていたら、この場所で午後8時に再会しましょうと約束したものの、戦火の下で出会ってから、ようやく3回目の半年後に再会できた春樹と真知子であったが、「明日、わたくしは結婚しますの」と告白する真知子が橋の欄干にうなだれる様子を見て、春樹は思わず「どうか、お幸せに」と言っていたと思うが、このむなしすぎる愛の邂逅には、ここから第三部までずいぶんドラマを引っ張ってゆく脚本には全く以って敬服させられる。いや、次はどうなるの、という楽しみがますます増えるわけで、全編6時間余りに及ぶこのメロドラマは大作映画の何物でもあるまい。ところで、歴史の遺構をことごとく壊してゆく土建国家の日本であるが、石造り二連アーチ橋だった数寄屋橋も1964年の東京オリンピック開催のために取り壊されてしまっている。壊しては建て替え壊しては建て替える日本は、ことごとく歴史を封印しようとする姿勢にもみえてしまう。歴史を勉強する者には判ると思うが、ヨーロッパのような歴史文化を保存しようとする文化意識は日本では案外と低い。やたら新しいものを好む国民性と資質のせいなのだろうか。歴史研究をして来たわたしも、何度かそういったイヤな体験をして来た。大事に保存すべきものは叡智を絞って保存してほしいものである。名作『君の名は』(1953-1954年)をDVDにして保存してくれた松竹に感謝を申し上げたい。日本が誇りとすべき名作中の名作映画である。

(2017/09/07)

『赤い靴』(1948年英 133分)
主演:モイラ・シアラー  監督・脚本:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー  原作:アンデルセン

もしもこの1948年製作の映画『赤い靴』が、2009年のカンヌ国際映画祭でデジタルリマスター・エディション版で世界初公開されなかったとしたら、反響は大きく変わっていたかもしれない。デジタルリマスター・エディション版で再現されたからこそ、この驚愕的な映像を目の当たりにすることになったといえる。『タクシー・ドライバー』(1976)や『ヒューゴの不思議な発明』(2011)などでお馴染みのマーティン・スコセッシ監督が2年の歳月を費やしてオリジナルのネガフイルム修復を施し完成させてくれたからこそ、『赤い靴』は不朽の名作として甦ったと言っても過言ではあるまい。この修復作業への熱意がなかったら、わたしたちはすでに廃盤となっていた『赤い靴』を鑑賞することは出来なかっただろう。スコセッシ監督自身が1942年生まれなのだから、この大方70年前にもなる映画のマスターテープを保存は出来ても映写再現することは到底困難だったに違いない。切れたネガ同士の継ぎ当てどころの騒ぎではなかっただろう。一齣ひとこま原画も色褪せて酸化や腐食で変色も著しかったに違いない。それを根気よく今時のデジタル撮影とデジタル映像処理技術で逐一補矯してゆく作業は、文化財の修理と寸分たがわぬ大変手間暇かかる作業だったに違いない。もちろん当時の映画製作に携わった撮影監督ジャック・カーディフの功績が根底にあったからこそ、原版再生にも至ったわけだ。写真家でもあり撮影責任者でもあったカーディフのテクニカラー採用技術の貢献は見落とせない。そして、同じ職業の映画監督の眼でしか補えられないマーティン・スコセッシ監督の新感覚構成も左右しただろう。『赤い靴』には、今時のVFX顔負けの壮大なる美術作品を観たような感覚にわたしは陥ってしまった。

そもそも『赤い靴』はアンデルセンの童話で、これを映画化した作品ということだが、どうもピンと来ないので、わたしは映画を観た翌日にあらためて童話『赤い靴』を青空文庫で読んでみた。文字にすると内容が少し違うようなので、これを映画にするとなると、案外難しいだろうな、ということがわかった。青空文庫の縦書き作品『赤い靴』(新訳アンデルセン童話集 第二巻 1955年 同和春秋社 翻訳者:楠山正雄)を読むにつれ、逆に映画の凄さも実感して来た。主役のモイラ・シアラーはもともとスコットランドのバレエダンサーであり女優なので、バレエ映画としても迫力を添えるわけだが、舞台で繰り広げられるバレエ劇の動きやプロジェクション・マッピングのような投影術も華美を極めており、ワイヤー宙吊りのはずがワイヤーは見えず、新聞紙までもが踊るさまざまなカラクリ芸術性の高さには、光と色彩の魔術も入り混じって、舞台の高さや奥行感にもびっくりするほどだった。呪われた赤い靴に因縁を持ってしまったバレリーナのヴィクトリア(ヴィッキー)・ペイジのさまざまな衣裳にも注目したい。舞台と私生活とを往き来する一人の踊り子を中心として、鋭い成功興行の目線を持つレルモントフ・バレエ団の団長を務めるボリス・レルモントフや若き作曲家のジュリアン・クラスターらが取り囲む演劇物語であるが、ロケ地となってゆく実際の1948年頃の時代風景や蒸気機関車が走る鉄道風景も面白い。画面が色鮮やかにキレイであるのには実に驚く。とても1948年製作のカラー映画とは思えない迫力を感じるのには、色彩の空気感だけではなく、意志を持った赤い靴が人間を征服し凌駕してしまう原作の力にもある。童話では首切り役人に赤い靴を履いたカレンの両足を彼女自らが懇願して切らせるオドロオドロしさとなっており実に不気味なのだ。こんな童話を子供たちに読ませてもいいのだろうかと思うくらいである。

童話『赤い靴』では、高さ20センチくらいのカレンの両足を付けたままの赤い靴が勝手に踊りだしてしまうという恐さであるが、映画ではそのようにはなっていない。童話で登場してくる女の子の名前はカレン、映画では童話のオドロオドロしさを和らげてかストーリーも多少変わり美化されてヴィクトリア(ヴィッキー)の名前で登場してくる。映画の最後では、ヴィッキーの夫である作曲家クラスターを追いかけ、バルコニーから赤い靴を履いたままダイブしてしまう悲劇が待ち受けている。一流のバレリーナだけを目指して精進するか、平凡な家庭を築きながら家族に縛られて二流のバレリーナを掛け持ちしながらバレーも続けてゆくのか、どちらを優先するんだと迫るボリスの冷ややかな脅迫に、ついに悲劇を招くというシナリオではある。名声と成功と高い芸術性を求めるからには家庭を犠牲にするしかないというボリスの偏った生き方に対して、若くて無名だった才能あふれる作曲家クラスターをメディアに担ぎ出したボリスの恩義に歯向かうクラスターの自由感が対立してしまう生き方の違いを映画では描いている。綿密で格調の高いバレエ映画だ。バルコニーの下を走る蒸気機関車の煙が愛し合う二人の運命を雲の上の絵空事のように引き裂いてゆくのだ。血まみれになって息も絶え絶えのヴィッキーは、線路伝いに駆けつけた夫クラスターに、赤い靴を脱がせてと言って昇天してしまう場面で映画は終わってゆく。キャストたちのエンディングには音楽も無く何一つ音さえ聞こえては来ない。一流の芸術とはいったい何か、考えさせる不朽の名作だといえる。

(2017/07/24)

映画のある日々

世の中がどう変わろうとも、年齢がいくつになっても、映画のある人生を送りたいと常々思っている。そもそも映画史としての起源は19世紀末1890年代の頃らしいから、それから現在に至るまで120年余りの歳月が経っているわけだが、往時の映画史と近年の映画史とでは、年々映画製作技術も向上して頗るスケールアップし、実写版のリアルさには度肝を抜くほど驚愕するばかりだ。シネマ日記2017では、いったいどの作品から手をつければいいのだろう。すばらしい作品が多過ぎて、選ぶのは困難を極めるようだから、ふっと思いついたものから、せめて題名くらいは書き留めておきたい。

『マイ・インターン』(2015)  主演:ロバート・デ・ニーロ

こういう映画はロバート・デ・ニーロに最もふさわしい味わい深い最高傑作といえる。

『007 スペクター』(2015)  主演:ダニエル・クレイグ

この映画はアクション・ストーリーのみならず究極のサウンド効果が抜群だった。

例えば、『セッション』(2014)では物語こそ面白かったが、音質としてはダメだった。ジャズを取り上げるにしろ、名曲を取り上げるにしろ、教師が生徒をいたぶるサディスティックな快感に酔い痴れているだけの誇張と作為しか目立たなかった。映画製作の手法として実験的であり、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のつまらなさと意外に酷似してみえた。唯一の救いとしては、プロのドラマーを目指す生徒アンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)が鬼コーチのテレンス・フレッチャー(J・K・シモンズ)教授・指揮者に対して最後にドラム・ソロで復讐を成し遂げる持続演奏の場面といえようか。主役のマイルズ・テラー自身が猛練習をして映画で迫真の演奏をしたことには絶賛の拍手を送りたい。この『セッション』の映画で第87回アカデミー賞・助演男優賞を獲得したJ・K・シモンズの意地悪い名演技も見事ではあるが、なにせ音楽の世界を描いたわりにはサウンドの音響が実に貧弱だったのは、ブルーレイのディスクが悪かったのだろうか。楽器は演奏すればいいというものではなく、それなりの音質収録もしてもらいたいものである。出来るなら、もう一度録りなおして、重厚さも出してほしかった。第87回アカデミー賞・録音賞でもあるなら、映画は映画館でのみ観よ、ということか。レンタルDVD再生派やBD再生ホームシアター派のほうが圧倒的にニーズが高いと思うのだが、もともとこの映画製作の発端のなれそめをウィキペディアでチェックすると、低予算からの出発、映画化までの情熱や紆余曲折、まだ若い映画監督・脚本家デミアン・チャゼル32歳の労苦もあって、充分な投資家が付くほどのキャリアも無かったことも分かったが、最新作のミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』(2016)(2017年2月24日に日本公開)では、今度こそサウンドは果たして報われるのだろうか。

まあ、「007」シリーズのサウンドと比較するのも無意味かもしれないが、『その女諜報員アレックス』(2015)の始まりオープニングのサウンドは、『セッション』の比ではない。いきなり謎めいたハイテク衣裳風の銀行強盗が現われるが、銀行の外で小さなドラム缶を並べて演奏しているレゲエ風の大道芸人たちのドラム・サウンドがたまらなく素晴らしい。音楽学校のキレイなドラム楽器には無い、粗野で汚いドラム缶の奏でる荒々しい音響は、実に重厚にして超繊細な低域のリズミカルなパーカッションで、この映画のすべてを暗示している音楽表現だった。この音域収録は見事と言う他ない。トリニダード・トバゴのドラム缶レゲエ打楽器も顔負けのサウンドだ。そのサウンド効果は絶大であるが、ストーリーよりももう少し長く聴いていたいサウンドだったが、『その女諜報員アレックス』で主演を務めるオルガ・キュリレンコは「007」シリーズのボンドガールでもある。『オブリビオン』(2013)でも出演。このアクション映画『・・・アレックス』のストーリーも目が離せなかったが、やはり『007 スペクター』のオープニングのサウンドはもっと凄かった。映画の本髄ここにありで、メキシコシティでの「死者の日」のお祭り再現ロケ現場からビル倒壊に至るまで熱狂したサウンド世界は只者ではなかった。映画のストーリー性や配役の魅力は当然ながら、素晴らしいサウンドなくして映画なし、とも言いたい。TV放送のTV音質やYouTube音質に慣れているわたしたちにとって、映画での本当のサウンドは特別なものでなければならない気がしている。最近は映画館よりもわが家のオーディオ・ホームシアターのほうが迫力があって楽しめるので、かえってこちらのほうに圧倒的に時間を割いている。なかなかゆっくりと映画を観る時間もないが、いい映画との出会いはとても得した気になる。

『インデペンデンス・デイ リサージェンス』(2016)
『X-MEN アポカリプス』(2016)
『アリス・イン・ワンダーランド 時間の旅』(2016)
『ミュータント・ニンジャ・タートルズ シャドーズ』(2016)

これらは3Dのために製作されたようなもの。2Dで鑑賞して、3Dでも鑑賞すると楽しさが倍増する。最高級の映像とサウンドの饗宴でストーリーにますます惹き込まれてゆく。ちなみに期待外れの作品もメモしておく。期待し過ぎた自分がわるかった。『キング・オブ・エジプト』(2016)のストーリーは面白いのに音響が追随していなかった。サウンドはDTS:Xなのに音の迫力に欠けていた。VFXの映像バランスと音感が噛み合っていなかった。せっかくのCG映像がもったいない気がする。配給映画会社の格差が出たか。『ウォークラフト』(2016)は圧倒的に面白いCGI実写版PCゲームの映像化なのだが、物語に従いてゆけなかった。所詮は子供向けのゲームであることを忘れていた。同じく『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』(2016)も期待が大きかったが、シニア世代が観る領域からは遠くかけ離れた幼稚な世界だった。孫とでも一緒に観ると楽しいのかもしれない。「ファイナル・ファンタジー」シリーズの映画では『Final Fantasy VII Advent Children』(2005)のブルーレイが大変すばらしかった。映像の面白さ・美しさ・わかりやすさ、フルCGに伴うサウンドのよさも大変よかったと記憶している。また吹替の声優がとてもユニークで印象的だった。この手の作品なら大歓迎だ。『KINGSGLAIVE・・・』はどうもいただけないのは、なぜか。日本的でないのが違和感を生んでるのかもしれない。美人の好み具合もまったく違っていた。最新作「XV」のルナフレーナよりも旧作「VII」のティファ・ロックハートの方が遥かに魅力的だし馴染みやすい。

『スーサイド・スクワッド』(2016)も『ゴーストバスターズ』(2016)もネタ切れ映画か。時間を無駄に浪費してしまった。先見の明なしで反省。『ピクセル』(2015)も時間の無駄。最悪だったのは、最近映画館で観たばっかりの『バイオハザード:ザ・ファイナル』(2016)もネタ切れ映画で、暗い映画はもううんざり。暗い、というのは、映像が暗いシーンが長くて多く、視力を痛めそうで、暗いという意味だ。タレントのローラが出演するからというから、まあ、仕方なく拝見。ローラ君、キミは映画の俳優業をナメとるな。ミラ・ジョヴォヴィッチが可哀想。

「暗い」といえば、すぐれたホラー映画のほうがまだすっきりする。面白かった作品をランダムに並べると、『ダークフェアリー』(2011)、『ポゼッション』(2012)、『ポルターガイスト』(2015)これは特にBDも買ったがサウンドが圧巻。またスティーブン・スピルバーグ脚本の1982年版のリメークということで懐かしさもあった。『キャリー』(1976)は私が最も大好きなホラー映画だが、この1976年版が2013年にフォックス・プレミアム・ブルーレイとして復刻しているのをみつけ、早速ヤマダ電機でBDを入手。「輝き続ける永遠の名作を究極のハイビジョンで手に入れる」の記念碑的お題目でゲットしたのだった。そしてさらに嬉しいのは、クロエ・グレース・モレッツが再び『キャリー』(2013)を復活アタックしてくれたことだった。シシー・スペイセクもクロエも私のお気に入り女優で、映画はやっぱり俳優次第ということでもある。『ヒューマン・キャッチャー』(2003)、『ミスト』(2007)、『スペル』(2009)、『MAMA』(2013)、『クランプス』(2015)、『ライト/オフ』(2016)、『遊星からの物体X』(1982)、『遊星からの物体X ファーストコンタクト』(2011)、などなど数えたらきりがない。普通のホラーやSFホラー、エイリアンものが好きだが、心臓バクバクはこの齢になると皆無にちかい。「うまくメイキングしたねえ」とか「よく作ってるねえ」とか「カメラワークがいいねえ」とか「ああVFXが見事だねえ」とか、つい仕掛けや先が見えてしまうので驚くことはあまりないが、スティーヴン・キング原作の映画作品はたいてい好きで、特に先が読めないミステリアスものはいい。

(2017/02/09)





制作・著作 フルカワエレクトロン

TOP