浅野川の土橋
木造二階建ての古い印刷工場の二階の片隅にあった三畳一間に住込みで働いていた私は、当時のさまざまな情景が、まるで幻であったかのような錯覚に陥ることがたまにある。紛れもなくかつてそこで働いていたわけだが、主にパンやアイスクリームなど食品包装のグラビア印刷の仕事をしていたのだ。三畳一間の住込み部屋には襖の無い押入れと、半畳ばかりの出入口の土間、そして東向きになった木枠のガラス小窓が一つ。窓は1メートルくらいの高さにあり、開閉が出来なかった小さな十字形木枠の小窓で、窓からはいろんな建物の黒瓦と空だけが見えていた。風雨や風雪の影響で窓の木枠は相当に朽ちており、小さな木の破片が窓枠の外側下に散らばり落ちていた。
この住込み部屋のもう一つの特徴は、前に住んでいた住人の誰かによって、タバコの火が原因で畳が直径20センチほど円く焼け焦げて凹んでいた跡が部屋のど真ん中にあったことだ。そんな部屋で寝起きをし、朝八時から夕方5時までは印刷工場で日々働いていたわけだけれども、この印刷工場のあった場所は、金沢駅から歩いて10分ぐらいだったか、七ツ屋町木屋というところだったと思っているが、ネットでいくら検索しても、そこには木屋という地域は見つからなかった。これも遠い過去の記憶の勘違いなのか、錯覚なのだろうか。なぜ木屋という地名を記憶しているのかというと、手紙などの郵便物に私宛の住所がそれらに書いてあったからなのだが、それさえもが気のせいなのか全く自信がない。49年前の金沢での暮らしなのだから、仕方がないのか、半世紀前の記憶を正確に遡るのはなかなか難しいようだ。
初めて金沢を訪れたとき、三月頃だったので、積雪が50センチくらいあり、とても寒かったのを今でもよく記憶している。半世紀前の金沢駅の当時は、暖かい待合室が24時間開いていたので、1週間ばかり待合室の木のベンチでお世話になっていた。駅の地下街に通じる映画館でも暖をとってお世話になったこともある。1週間で仕事を見つけなければ手持ちのおカネが無くなり、再び東京に戻らなければならなかったのだ。幸い1週間後に職安の斡旋で運よく印刷工場の住込みバイト暮らしが決まり、この印刷工場での生活が私の文士生活の第一歩となった。社長は二代目で青山学院大学を卒業後、学者への夢を諦めて、先代の父親の後を継いで印刷工場を任せられたらしい。一度だけ工場内の二階にあった社長の書庫を案内してもらったことがあり、大量の書籍がずらりと壁面に整然と並んでいたのを記憶している。本棚が四方に10メートルくらいは並んでいただろうか。その中に古い装丁函の中原中也全集を見た時、その頃の私が最も欲しかった全集だったので、社長に「譲ってもらえませんか、おカネは支払います」と言うと、社長はニヤリと笑って「それは無理だ」と言われた。「そりゃそうですよね。大事な本なんですから」と相手の気持ちを慮って私は言ったような気がする。このとき、生意気で青二才の私は21歳で作家を志していたが、社長が目指していたような格式高い学者志望とは、今思えば私などとは程遠い話で比較にならない身分ではあった。そもそも書籍の圧倒的な学術的な本の所蔵量に私は舌を巻き、格の違いをまざまざと見せられていた。
貧相な私は後日、仕方がないので香林坊の北國書店で当時発売中の中原中也全集を一冊ずつ買い始めたかと思う。社長所有の中也全集は1ページ二段書きのびっしり文章が詰まった絶版もので、当時本屋で買った私の中也全集は1ページ一段書きの、余白の多い出版社側の利益優先意図が見え見えのものだったが、購入していった。のちに京都に引っ越してからも買い揃えていったかと思う。ところで、その二代目社長から聞いた話が面白かった。先代の社長は生前に古川緑波(1903-1961)とよく日本を漫遊していたとのことだった。先代社長と友達関係だったのかよくわからないが、当時の私は古川ロッパの名前は知っていた。私は小学生の頃から「ロッパ」「古川ロッパ」とからかわれていたので、それが誰なのか、昔のコメディアンの名前であるのは知っていたのである。古川ロッパは1930年代を全盛期とするコメディアンで、昭和の喜劇王とのこと。印刷工場そっちのけで、古川ロッパとのらりくらりと日本を漫遊していた先代社長とは一体どんな人物だったのか、まあ興味はさして無いものの、インテリ二代目社長とのギャップは、案外なかなかイケてるのかもしれない。それでも二代目社長は能登半島のいろんな観光地に社員みんなを連れて慰安旅行したり、自前の豪華ボートも持っていたので、その船で能登の遊覧をみんなと楽しんだり、夏場は社員みんなを楽しませてくれる優しい社長だった。バーベキューあり磯釣りあり、あちこち海辺の店や香林坊の繁華街で新鮮な海の幸をいろいろ振舞ってくれるイイ社長であった。やはりどこか先代社長の豪傑な血を引いていたのだろう。仕事ができる人は、遊びもできる人なのだろう。
ところで、その変てこりんな木造二階建て印刷工場の裏側には、すぐ後ろに浅野川が流れていて、土堤の上には小道があり、近くには珍しい土橋があった。結構細くて長い土橋で、江戸時代のものなのか明治時代のものなのかは知らないが、半世紀前の記憶とはいえ、何度もそこをよく歩いては川を眺めていたのでよく憶えているのだ。幅は4メートルも満たなかったような、もちろん欄干も無く、ただただ平坦な土橋が続いていたような記憶なのである。川原と水面までの高さは3メートルも無かったような、まさに浅い野の川といった感じの風情がそのまま残っていた。ネットで検索しても、そのような土橋は今は浅野川に残ってはいないようなので、おそらく近年のような大雨洪水などで被害が出て、すでに崩れ去って流されたのかもしれない。昔から住んでいる地元の年配の方なら、その土橋の歴史を知っているはずだ。橋の歴史も貴重な文化なので、当時の写真があれば大切な遺産となるだろう。この土橋を思い出しながら、実はここを舞台に私は一昨年、短編小説『土橋』を書いている。短編小説集『ブルーベリーの王子さま』(カクヨムWeb短編小説賞2021 現代ドラマ部門投稿作品/主催:KADOKAWA)の中の作品だ。私が実際に歩いた当時の土橋は、確かに存在していたはずなのだが、金沢市の図書館資料室にでもコンタクトをとれば、何か証拠写真でもきっと見つかるはずであろう。曖昧模糊とした半世紀前の遠い記憶の旅は不確かとはいえ、今になってみれば不思議にロマンを誘うような光景であった。拙作短編小説『土橋』は大変短い小説ではあるが、そんなロマンから生まれた淡い結晶を形にしてみた。なお、私が当時働いていた北陸の印刷工場は、「秀美堂」という名前の会社だった。
(2022/06/24)
香林坊のイラスト・文・ 古川卓也
|