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双方向素子に似た末端の経済学より (1998年 小論文)
        蹉跌と砂鉄   技術の功罪   ガウディの複眼
文・ 古川卓也




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  電子部品の産業界でわたくしの如き超微細なウイルスにも似た経営者が、あらためて秀でた経済論を披露しようなどとは、あまりに僭越きわまりなく、恥晒し以外の何ものでもないにもかかわらず、ひょっとしたら不況の社会の末端で必死にしがみつき取り付いているバクテリアの如き存在やも知れぬが、たとえそんなバクテリアに見えたとしても、やはりバクテリアにはバクテリアなりの経営理念があるのである。
  エレクトロニクスの業界といっても、その範疇は人が想像し得る以上に広くて深く、壮大な宇宙論まで展開するかと思えば、超ハイテクミクロの結晶体まで多種多岐にわたる。とりわけ日本のエレクトロニクス技術は、生産技術や技術開発に付随するイノベーションの分野では何らアメリカにひけを取らない。いや、むしろ日本のテクノロジーなくしてアメリカは世界に貢献できないかもしれない。まあ、しかし、もっともその逆も言えるのだが。

  そんな中、わたしは昨年7月(1997)に電子部品販売事業所を設立した。11年間電子部品売り場の店長として勤めていた電機店をやめ、あらゆる迷いを捨てて、起業家に踏み切った。超ウルトラ貧乏人の決断だった。資金繰り、機材、製品資料、何万種類あるか知れないパーツの規格データ、そしておよその単価表、国内で市販されている膨大な電子部品のノウハウ(意外とこれは知的資本?)、そして経理、これは4ヶ月余りかかって弥生会計(インテュイット社)ソフトを自分のものにした。7月から期末までの半年間の売上げは実に僅かなものであったが、税理士に頼らず、自分で青色申告の帳簿を仕上げた悦びは、売上げより何より嬉しかった。だんだん会社らしいものになってゆく悦びを、わたしは妻と分かち合っていった。古本屋でパートをしている妻の僅かな給料と、わたしの仕事の僅かな収入とで現在生計を立てている。
  そもそも経済力の意義を自分に問うことから、わたしの個人戦略は始まっていた。世の中には二通りの人間がいて、まず経済能力がある人、ない人。経営能力がある人と、経営能力のある人に使われている人。だが、この論理は一元的なもので、人はまた職種によってさらに細分化される。となれば、その職種というものの意味を、こんどはあらためて考えてみたくなる。

(2000/12/18)


  職種はその人のすべてを表現しきれるたいではない。事業経営を自ら始めたことのない人が、経営理念を語るのもおかしい。経営工学は実践の上に成り立たなければならない。机上の空論は虚しいだけである。会社を動かしている人と、経営学をしゃべる人とは、政治家と経済学者との違いにも似ているが、双方向の概念がかりに共有し合ったとしても、いざ実行となれば身分はまったく乖離した立場にある。では、経済学者が政治家になればいいようなものだが、現実にはこれほど融合しないものはない。利権が絡み、背任や汚職が絶えない土壌で55年体制を引き摺って来たこれまでの日本型政治の構図に、その可能性はない。永田町の論理もあれば、ディスクローズされない銀行のモラルハザード(経営倫理の欠如)もある。転換社債やワラント債といったエクイティ・ファイナンスでBISの自己資本規制を賄おうとして来た選択が、今日の株価暴落で途轍もない含み損を招き、窮地に追い込まれた責任は大きい。その責任をまた回避して、護送船団で公的資金(国民の血税)の資本注入を要求する銀行の体質とは何なのか。J・S・ミルの『経済学原理』では、株式会社の担保ともなる自己資本の充実と財務内容の公開が、全社員(株主)の有限責任と社会信用を明確にできる原理となる。日本の場合の旧態依然の金融行政は、最早弊害であろう。

  日本の資本主義社会における産業構造のインフラが実のところで、ちょっとでも金融破綻が連鎖すれば、かくも脆く傾きかけてしまう現状を、ただ人はマネーでのみ判断すべきなのかどうか。規制緩和や金融ビッグバンの到来だけで、日本経済が淘汰される時代に入ったと思い詰めるには、それを数値的判断だけではなく、数字が決して経済の動向をすべて暗示してくれるものでもないことを錯覚せぬよう、自覚せねばなるまい。
  われわれ日本人が1985年のプラザ合意から市場自由主義という詭弁に翻弄されながら、実はアメリカ型経済政策を徐々にお手本とまで錯覚させられて、日本独自の産業構造を今日に至って狂わせてしまった元凶を、バブル崩壊後の金融破綻にだけ目を向けるのではなく、飽満しきった物質主義社会に最も欠けた精神構造の破綻をも鏡でよく見るべきであろう。グローバルに世界と共存し生きてゆく上で、器用がいいのか不器用がいいのかは、日本特有の文化の気質で経済論とて左右されるのだ。金にならないことは決して悪ではなく、金になることが必ずしも善ではないように、エコノミック・アニマルという言葉は、当時も今でも侮蔑された言語であることには間違いないのである。経済構造から次は精神構造が淘汰されてゆく日々があっても、自明の理かもしれない。
  この文化論の役割が、実を言うと、これからわたしが語りたいところの本題でもあり、経済論に繋がる理由でもある。

(2000/12/20)



         蹉跌と砂鉄


  法政大学工学部電気工学科中退、これがわたしの最終学歴である。もっと正確に言うなら、大学中退後には京都の関西日仏学館(フランス語専門学校)にも入学して、その3ヶ月後には、また中退というお粗末さである。大学を中退するなんてバカかもしれない。そんなこと、最初からわかりきっていると思っている人は、機械的に判で押したような常識を備えている人であろう。つまりわたしは非常識人であった。けっして皮肉った自己弁護なんかではなく、本当にあの頃は世間知らずで、常識に欠けているところがあったのだ。自分の将来に対して計算高さに欠け、非現実的な理想ばかりが大きかった。理想がこんなにも金にならないのかと、後になればなるほどわかって来た。
  しかし、大学を退めてから25年、わたしはそのことで、いまだに一度も後悔したことがない。情けないくらいにボロボロの青春時代であったが、であったがゆえに、わたしは逆に多くの感動を世の中から頂いた。たくさんの師を持つことも出来たのだ。苦悩の数が多ければ多いほど、人はまた崇高なものを手に入れることができるようだ。

  作家を志し文学の道を選ぶと同時に、わたしは大学を中退した。理系から文系に転向してしまった。二十歳まで読書嫌いであったあの自分が、突然、文学なくしては生きていられなくなったのだ。東京都三鷹市井の頭、その場所から、わたしの大学生活というよりも文学生活は始まっていた。
  中央線吉祥寺駅から井の頭公園の池を渡って、閑静な住宅街の一軒の屋敷に下宿していた。駅から下宿先までゆっくり歩いても、15分とかからなかっただろう。その当時、池にはまだ噴水がなく、こんな都会の雑踏のなかでこれほど静かな公園があっていいものかと、そんな環境に恵まれて文学生活が始まっていたのは、倖せなことだった。

  詩人の金子光晴に生前お宅をお邪魔して、一度だけ会ってお話しをしたことは、わたしの大切な思い出である。東京を去る前の冬の日のことで、詩人は青二才のわたしを相手にしてくれて、おぼつかない老体で、白い火鉢を抱きかかえ、三畳一間の書斎をよろよろと出るや、それに赤く燃えた炭火を入れてまた書斎に戻られ、わざわざわたしのために暖をとってくれたのである。初めはその火鉢にはもう何時間も火の気がなかったようだった。体が弱られてあまり動けなかったからか、高齢のせいというより、どこか体を超越した高貴な顔の表情であったことを、わたしは今でも印象深く記憶している。大学ノートに書いた詩編を見てもらい、詩人はその中で『ひとり』という題の詩を指差し「これがいいね」と褒めてくれた。一生忘れられない心のアルバムになってしまった。狭い書斎には古めかしい焦げ茶色の植物図鑑だけがずらりと並び、部屋の片隅にぽつんと置かれた6号の大きさの花の油絵だけが、はなやかにみえた。耳が遠くなった詩人は無表情のまま、ぼんやりと一点をみつめていた。その横顔には「人は怒るべき時、強く怒れよ」と訓えてくれた逞しい詩人の姿があった。あれから25年が経ち、詩人の魂は今もわたしのなかにある。

(2000/12/22)


  科学と物理が好きであったわたしは、大学を卒業したらソニーに就職するのが夢であった。その夢が大学に入った途端、もろくも潰えてしまったのだ。ほとんどの学生が平然と勉強しているのに、わたしにだけその空気に疑問が生じてしまったのだ。
  後に考えてみれば、わたしに理数系の能力がなかっただけのことで、「わたし」という工学エキスパートがその大学から生産されなかったにすぎない。ただの不良品であったのだ。適性がなかったのである。
  東京を離れて北陸の金沢へ移り住み、そこで1年を過ごした。食品関係のグラビア印刷工場に住込み、働いた。21歳のときだった。わたしには印刷の仕事をしているというより、指先をカミソリの刃で切ってゆくのが仕事のように思えた。毎日毎日、何度も何度も自分の指先をカミソリの刃で切っていった。スリッターという機械に何枚ものカミソリの刃が付いていて、グラビアされた1km巻きのセロハン製品を裁断する工程で、刃が摩耗するたびに取り換える際、つい指先を切ってしまうのだ。その仕事を1年やってみたが、指先だけは胼胝(たこ)もできずに、やわらかなままだった。緑色に変色した手のひらは、溶剤でも色が落ちず、まるで皮膚の中に葉緑素があるみたいだった。

  城下町に流れる犀川と浅野川、遠くに見えていた白山、香林坊の夜景、そして室生犀星や泉鏡花、徳田秋声が生まれた町として、思い出をいっぱい詰めたまま、その木造二階建ての古びた印刷工場の会社を退めるとき、そこの社長が手渡してくれたものは、フランス語で書かれた、タゴールとロマン・ロランが交流した書簡集であった。わたしが京都のフランス語専門学校に行きたいと言っていたので、そのような素敵なプレゼントをくれたのであろう。そのかわり「二度と金沢に戻って来るな」と言われてしまった。わたしは本気でフランス語をものにしたいと思っていたのである。
  京都のフランス語専門学校、関西日仏学館へは3ヶ月間しか通わなかった。今思えば自分の志の甘さにつくづくイヤになる。22歳のときである。お世話になった金沢の社長のご期待に添えず、わたしの人生の転落はここから始まり、大きく脇道へ逸れていってしまった。ぐうたらな三文文士の始まりだった。

(2000/12/27)


  京都には6年半ほど洛北の岩倉に棲みついていた。比叡山がすぐそこに見え、四季折々の風景だけが、わたしの唯一の友達のようであった。職業を転々として、失業している間だけが、わずかな自由を満喫できた。大阪や奈良にはよく遊びに行った。とにかく旅が好きだった。放浪癖は治らなかった。
  自己の無能力への幻滅は、現世への幻滅ともなったが、そんな中、洋画家の和気史郎との出会いは、その後のわたしを大きく変えてくれた一人である。
  生前に一度だけ、河原町の朝日会館で朝日新聞社主催の和気史郎展初日に、わたしは和気氏に出会うことが出来た。
「あの、和気先生でいらっしゃいますか?」と、展示会場入口のソファーにぽつんと腰を下ろされていた氏に、わたしは声をかけた。
「はい」と氏は頷かれたので、
「実は先生の絵を持ってまして、前からファンでした。とても感動してました。ほんとに、どれも、すばらしいですね」
  とわたしが言うと、氏はすっと立たれ、絵が展示してある方へわたしを案内してくださった。そして、
「これは、こうして親指の腹で、苔を塗り潰してですね、実は描いています」
  と説明された。50号の『苔寺』の前であった。西芳寺こと苔寺も和気画伯の手にかかると、幽玄にも凄みが加わる。鏡のように映った池の美しさにも、鬼気迫るものがあるのだ。

  その『苔寺』シリーズの一枚を、わたしはローンで買っていた。四畳半一間の下宿の部屋に、わたしはわたしが納得できる本物の一枚を欲しかっただけだった。京都中を探してわたしが買える範囲で、やっとみつけた一枚の油絵であった。画廊で初めてその絵を見た時、この絵のオーナーは自分だと感じた。絵を見て、感動するのと所有したいのとは、意味が違う。その情熱にはまるで運命ほどの重みがある。作者がどういう人なのか判らぬまま、わたしはそれを買った。知名度など、どうでもいいことだった。出会いがすべてであった。
  故・和気史郎の『孫次郎』や『二人静』などの能シリーズものには、その面(おもて)といい能衣裳といいその炎えるような静寂にして烈しい何とも言い知れぬ情念は、まさに狂気にちかいものだったかもしれない。日本画では表現しきれないもので、油絵の具でしか表わせないタッチのものである。これらの中世の雅な日本文化の形を、油絵でここまで烈しく表現した画家を、わたしは他に知らない。
  和気画伯作品『興福寺』の絵の中の朧ろに照らす日輪が、哲学者の梅原猛の著作集全20巻(集英社)の外箱装画に使用されているのを知ったのは、すでに京都を去って10年振りに山口に戻り、しばらくしてからだった。和気史郎の『興福寺』や『弱法師』に漂う幽玄な日輪で包み込まれている梅原猛とは、いったい何者ぞ、とまだ何も知らなかった当時のわたしは、その時28歳だった。
  ロシア文学、フランス文学、日本文学、西洋哲学が、わたしの20代を形成していたのに対して、30代のほとんどは東洋哲学や仏教美術史の魅力に取り憑かれていて、実のところ、そのきっかけは梅原猛著作集の影響抜きには考えられないもので、その後の東洋思想や東洋史にのめり込んでいったのも、梅原先生の恩恵が大きい。

(2001/01/05)


  文学というより歴史へ興味を転換させた直接のきっかけは、実を言うと30歳になった頃から心臓が少し悪くなっていて、どうにもひどい不整脈に襲われ、身近なまわりの風景がまるでこの世の見納めであるかのように新鮮に映りはじめ、その日、循環器科専門の病院からの帰り道に、なぜか近くの有帆菩提寺山にのぼりたくなり、そこで丈六の石仏に出会ったことが、そもそもの発端である。
  その前年わたしは九州を旅していて、小説の取材も兼ね、大分の石仏群なども見てまわって来たばかりだったから、まさかこんな山口でこれほどの石仏に出会おうとは、想像もしていなかったのである。わたしはこの石仏を調査してゆくうちに、心臓のほうも知らず知らずに快復し、研究に没頭していったのだった。
  昭和60年(1985)、わたしはこの石仏研究論文『有帆磨崖仏と防長の古代豪族』 を「歴史読本」(新人物往来社)の第11回郷土史研究賞に投稿した。1次、2次と予選は通過したが、最終選考で落ちた。日本全国から寄せられた作品論文中、19人の内の1人に選ばれただけ少しは自信につながった。
  その後、古代を取扱った歴史小説『曙光』、明治時代の歴史小説『冬の門』、仏教史論文『砂の城(古代中国廃仏史・北朝篇)』 と書いていった。

  それはともかく、かねてより10年来待ちに待った待望の書が、ついにわが国の歴史学界に初めて本格的文献史料として原文・訓読文・註解を併用して実現するに至った今年(1998)2月、「新日本古典文学大系」(岩波書店)の『続日本紀』全5巻が堂々と完結したことは、古代史を研究する者にとって最上の歓びではあるまいか。東洋文庫(平凡社)の『続日本紀』はあくまで文庫の域で、東洋文庫のいいところは、『真臘風土記』や『魏書釈老志』などを平然と文庫にしてくれる有り難さにある。その幅広い学術書としての文庫の網羅は、偉大である。(* 上のPDFは論文の一部を画像にて紹介しています)


(2001/01/17)


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         技術の功罪


  京都を去る前の昭和55年(1980)、ちょうど路面電車が全線廃止になりつつあった頃で、いわゆる京都名物の元祖チンチン電車の御影石路線を継いでいた市電(この市電はのちに広島で復活)もついに姿を消しつつ、地下鉄に変わろうとしていた時期だと思うが、河原町の本屋で唐木順三の遺稿 『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(筑摩書房)を見つけたとき、わたしは大学を中退した自分が、ハッと救われた気がしたのである。あの理工系の競争のなかで、あの時、わたしは科学というものに無意識にも何か違った疑念を抱き、その時は言葉にならなかったが、その懐疑の心が、哲学の始まりを20代にもたらせたのではなかったかと、そう思えるのである。その疑念は30代になってもやはり変わらず、46歳の今も科学技術の発達をけっして徒に信奉することもない。むしろ、今日のテクノクラート(技術過信者)や技術立国である日本の将来を大変危惧している。心配なのは、テクノクラシーには良心の判別が伴わないことだ。そのことを忘れがちである。

  現在わたしは2台のパソコンを道具として使用はしているが、いかなるコンピューターも、人間の頭脳のようには「哲学する心」は作れないと思っている。このことは、昨今の経済情勢に深く関わっていると思われる、アメリカのベンチャー企業である某格付会社のファイナンス理論、物理理論によって数値的データでもたらされる予測倒産率(expected default frequency)で以ってしても、その信用リスクの比率が、たとえコンピューターで割り出されたからといって、格付された日本の会社が株価を下落し、やがて倒産に陥る論理は、知能を持たない生物の進化論と同格視して大変に失礼である。無機質な数学理論というものが異常に蔓延した結果が、今世紀末の人類の苦悩なのではないか。少なくとも20世紀前半の西洋哲学者らが、仏教思想に傾倒し始めたのも、いずれ行き詰まるであろう文明の形を予感したからだった。科学主体の文明はいつしか生活文化の形態を変え、自然を敬う暮らしを必ず放棄する。たとえ宗教や宗派が異なっても、お互いに相手を尊重し共存し合い、平和を何より優先し相手の罪は許す慈悲の思想を持つ仏教の魅力に、西洋哲学者たちはどれほど羨望し人類に光明を抱いたことか。なのに、20世紀末の現実には、恐るべき大量の核兵器や1億1千万個もあるといわれる地雷など、さまざまな環境破壊に、全人類は囲まれているのだ。
  脅威のすべては、お互いの信仰や思想への敬意を無視して、自分の思惑で相手をねじ伏せようとする神にも充たない低い人間レベルの驕り、この誤りから端を発する。正義と復讐を貫くイディオロギーには、必ず闘争と報復が繰り返されるものである。毛沢東がかつて言ったように、「戦争をなくす方法は唯一戦争である」とすれば、これは人間同士の尽きない闘争本能への絶望感であり、未来への警告でもある。

(2001/01/22)


  科学という概念にメスを入れた唐木順三は、その「覚え書」にすさまじい批判を展開させる。
  ラッセル・アインシュタイン宣言(1955)では、世界第一級の自然科学者11名(日本の湯川秀樹も含み、そのほとんどはノーベル物理学賞の受賞者)の署名で以って「核兵器による人類の危機を克服するために、世界の科学者は国家の一員としてではなく、人という種(species)の一員として、ヒューマニティーに心がけ、世界戦争では決して国家間が平和的に解決しない」趣旨の声明をロンドンで公表し、それは世界の科学者に大きな反響を呼んだとされる。そして、その2年後にカナダで開催されたパグウォッシュ会議(1957)では、日本から3名(湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄)を含む物理学者・化学者・生物学者・弁護士ら22名が参加したが、当初のラッセル・アインシュタイン宣言の提唱を継ぐはずが、やや変質して来たことに憤りが徐々に現れるのだ。

  パグウォッシュ会議の議題ともなった「科学者の社会的責任」は、大本をたどればスウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルのダイナマイトの発明によって、当時では何物にも勝る破壊手段としての火薬でありながら、一方でその功罪にも苛まされ、人間に対しては仇ともなり破壊的ともなり得る事に、その終生における良心の代償として、ダイナマイトの特許権でつくりあげられた莫大な財産を基金とし、ノーベル賞を設けた彼の遺言からそもそもの発端がなくはないにしても、その事に触れているアインシュタイン自身が、同じように悲痛な境地で「宣言」に至っていた経緯を、やはり無視するわけにはいかないのである。「宣言」が発表される3ヶ月前にアインシュタインは、「人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか」と提言を託しながら、死んでいったのを忘れてはならない。
  アインシュタインは1921年にノーベル物理学賞を受賞したが、第二次世界大戦のさなか、アメリカで秘密裏に原子爆弾の製造を計画していた、いわゆるマンハッタン計画の発起者であり推進者であった。開発されたその原爆は、広島、長崎に投下されて、戦争は終結した。
  科学のための科学という純粋にして自由に研究もできると、イタリアからアメリカに移住して来た物理学者フェルミ(史上最初の原子炉を建設、ノーベル賞)を側近として、原爆実験最高責任者のオッペンハイマーらと核兵器(原爆・水爆)の製造に余念がなかった科学者たちの良心と原罪を糾明してゆくと、そこには「科学のための科学」というある種の不感症にして、不実だけが目立つ。

(2001/01/26)


  唐木順三は指摘する。<オットー・ハーンは1938年に、ウランに、中性子を照射すると、原子核に分裂が起り、巨大なエネルギーを発散することを発見した。彼はこの核分裂や放射性原素の発見によって、1944年に、ノーベル化学賞を受けた。この「発見」が原子爆弾の「発明」に直接につながっていることは否まれない。……科学者の科学的発見には、その限りでは善悪の問題、倫理の問題の介入はなく、ただ科学的真理、事実の追求ということが主要な動機であろう。その発見の結果がもたらす事態に対して、直接の責任は無いかもしれぬ>と。そして、<私の素朴な疑問を率直にいえば、絶対悪であると断定されている核兵器を造り、その実験にたずさわった者はもちろんのこと、それの根拠となる理論、条件を明らかにした現代物理学、例えば素粒子論、巨大な実験装置、例えばサイクロトン等々に直接、間接に関与している学者、技術者もまた「悪」にひきずりこまれた者とすべきではないかという点である>と。

  理論物理学者たちに対する功績と功罪には、徹底した批判の矛先が向けられる。唐木順三は、デカルトの『方法序説』のようには時代がそぐわなくなった近代科学にむしろ『荘子』の無為自然回帰に目を向けたハイゼンベルクを良しとしても、日本の湯川秀樹に対しては「自己懺悔」「自己告発」が認められないとして辛辣である。「罪」の自己意識の問題としては、アインシュタインや朝永振一郎(『物理学とは何だろうか』)に較べて、湯川にはそれが欠けていたとする。
  ハイゼンベルクの『現代物理学の自然像』で『荘子』の一節を引用して、
「有機械者、必有機事。有機事者必有機心。」に唐木順三自身も触れる。この「機械ある者は必ず機事あり。機事ある者は必ず機心あり」には、実に真理がある。「機械之心」とは、機巧であり、機巧とは巧智、巧詐、策略のことと解し、「機心」は巧みにはたらく心、偽りたくらむ心、策略をめぐらす心と解すのである。

  人間のとどまるところを知らない欲望が、すなわち近代文明、近代産業、近代科学を生んだ基本構造であると、唐木順三は断言する。そして、その進歩の極限に原子力エネルギーを見い出し、核兵器もあるが「平和的利用」も可能だと盲信する現代人の現状に、絶望的なほどに憂慮し、警告を放つのである。近代科学文明のなれの果てとして、進歩と見えているものが、実は人類やすべての生きとし生けるものの死滅につながるという畏れが普遍化してきたことを、死の床まで言い続けたのだった。
  この昭和55年に出版された唐木順三の遺稿『「科学者の社会的責任」についての覚え書』を手にして、はや18年の歳月が経ってしまった。<現代が生みだした大罪を告発する烈々の遺書>は、いま再びわたしのなかで烈しく甦るものである。

(2001/02/06)



         ガウディの複眼


  これは蛇足だが、こちら地元山口の壽屋では、この夏の商品である兜虫一匹が680円(税別)で売り出されていた。痩せて貧相なクワガタムシのまだ子供みたいなのも、やはり同じ値段だった。無能な昆虫の哀しい姿だった。それは同時に自然破壊する人間の姿の象徴でもある。養殖されてゆく生態系と、クローン化に余念がない遺伝子工学の讃美には、無信仰のバイオテクノロジーだけが相変わらず肥大化している。
  ところで、わたしにはささやかな夢がある。妻と一緒にフィレンツェやジュネーヴ、ブリュッセルなどを歩いてみたいことだ。また、地中海に面したバルセロナで、ガウディのサグラダ・ファミリア教会をバックに記念写真が撮れたら最高である。

  地中海に面したカタルーニャの特異な風土を一身に享けたアントニ・ガウディ、その誰も真似ができない造形の美学、何百年かけても完成しそうにない教会建築、だが、それこそが永遠なる芸術であり、ガウディが求めた神の家、サグラダ・ファミリア教会そのものを文化とせずして何と説明できようか。建築家ガウディのような複数の眼を、わたしも持ちたいものである。不可思議なるカサ・ミラの建物を、はたして現代の建築家の何人が理解できようか。この合理性に欠けた、常識を逸した、まるでトリックでも見ているような建物に、何人が挑戦できようか。予算、納期、収益といった数値ばかりがすぐに先行してしまう現代人に、はたして利害を無視した建築物をどこまで創造できようか。もっとも建てる動機も見当たらないが。ガウディの建築学には、利便性や機能性といった基本の上に自然をうやまい寓話性を取り入れた神への畏敬の念とオプティミズムが混在するが、それゆえ有機的とも見なされるのに対して、現代の一般建築には、効率性や有益性、幾何学的なデザインといったものだけが評価され、つめたく無機質である。斬新な宗教建築さえ、建物というより、モニュメントかオブジェにしかみえないものが多い。

(2001/02/20)


  東山魁夷の『風景との対話』を読んで以来、わたしの環境破壊に対する批判の眼が、自他共に厳しくなったのは、20代半ばからである。金沢時代に新潮社の「川端康成全集」全19巻を入手し読破してからというもの、川端推薦文を附した『風景との対話』は、わたしの胸のなかで名著となっている一冊であり、日本人として受け止めるべき、戦後の昭和に打ち鳴らされた警鐘の一冊でもあると今でも思っている。日本を代表する日本画家の心情に鬱積した環境へのメッセージを理解せずして、魁夷の本質は見えない。自然を大事にしようとしない民族に、いくら高度経済成長があっても、経済大国になっても、その国の文化性は貧しいままである。環境を大事にしない心に、国の繁栄があるはずがないのである。まさに官僚主導型の象徴を連想させるような建築物・東京都庁(*平成13年3月いま石原慎太郎都知事での都政だけの官僚体質はいくらか変貌しつつある)の建物を、かりにあのサグラダ・ファミリア教会と較べてみるがいい。

  今日、日本の経済はデフレ大不況のただ中にある。株や土地の含み損益に縛られた金融業界の脆さが日一日と露呈し、自己資本比率8%以上(国際基準)であるかどうかも曖昧になって来た。現政府・自民党(*平成13年3月いま自民党、公明党、保守党の連立政権)の小渕政権(*いま森善朗内閣、森政権)や大蔵省(*いま財務省)に対する国民の不信感は、今や頂点に達している。さらには、つい最近明るみに出た防衛庁の背任事件は、日本の官僚体制の信頼失墜の象徴でもある。経済学以前に政治学そのものが消滅している現象だ。ケインズの標準的マクロ経済学どころか、学問以前の人としての心得であろう。ファンダメンタルズの回復以前に、利権を孕んだ政・官・財癒着の病巣と温床をひきずっている末期的病理に、市場も経済も日本は限界に来ているということだろう。不良債権処理問題に迷走する日本長期信用銀行(*いまは無い。破綻)を初めとした金融破綻の連鎖(ノンバンクの日本リースは金融再生関連法案の成立前に戦後最大の負債額ですでに倒産)は、一つの時代が終ったのではなく、これから始まろうとする健全な日本経済の建て直しに、世界からその真価を問われる幕開けとなったのである。

(文中敬称略/平成10年10月4日脱稿)

  【あとがき】  この未公開小論文は1998年10月「週間ダイヤモンド」自分史大賞に投稿したものであるが、無名作家のわたしにとって「自分史」ほど書きたくないジャンルはない。作家があえて自分史を書くようになったら、作家の生命は終ったも同然と今も考えている。わたしはわたしなりの表現で小論文として投稿したわけであるから、自分史としては相応しくないのは百も承知であった。他人の中に自分の分身を常に描いてみたいのである。それが小説家としての基本マナーではあるまいか。こういうスタンスの自分史を選考委員に発見してもらいたかったのであるが、やはり己れの力量不足であった。これを投稿して2年余りが過ぎたが、その後の日本経済は国民からも外国投資家からも政治不信感を募らせて、ますます悪化の一途を辿っている。

(2001/03/05)
小論文『兜虫の如く(双方向素子に似た末端の経済学より)』の著作権はフルカワエレクトロンに帰属します。
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(2009/07/10 リニューアル) - 2023/05/29 再公開 - 2024/03/05





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