歴史小説『曙光』(後編)ホーム

            歴史小説  曙光

日本古代史、天平時代の仏教史ロマン


ハンセン病国家賠償訴訟判決に勝訴した患者・元患者・故人たちの人間回復を祈念して、この作品を捧ぐ
「ようやく人間になりました」(原告の声より)     2001年5月25日
原作・古川卓也
    前編 (一) (二) (三)
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               (前編)

         (一)

物部もののべさま、あれは……」
裳瘡もがさであろう」
「では、このまま先を急ぎましょう」
「まあ、待て」
  物部広宗は馬をとめたまま、投石を受けている奴婢ぬひ母娘おやこから、視線が離れなかった。秦光成は、またかといった顔つきで、広宗の横顔をつくづくと見つめた。
  赤斑瘡らしい母親の方はかなり重態のようすで、地面を匍うようにして悶えており、汚なげな破れた衣類を身に纏ったその母親に、八歳ぐらいの小娘がぎゃあぎゃあと喚きながら、必死に縋り付いていた。そして、小石がどこからともなく飛んで来て、その疫(えやみ)を患った女と小娘に、それらが容赦なくぽかぽかと当たって弾いている。
はだ、このむらも徹底して指導せよ。逆らう者があれば、成敗いたせ」
「はっ」
  秦光成はやむを得んといった諦めた表情を浮かべながらも、広宗の命を受けるや、ただちにそれを行使した。光成は後続の部下に合図を送ると、騎馬20騎のうち、後続第1班の10騎を率いて、素早く奴婢親子のまわりを取り巻いた。
  腰に剣を佩き、亀甲錦と緋の挂甲(かけよろい)で身を固めた騎兵は、弓箭(ゆみや)で防御体勢を作りながら、石が飛んで来る物かげの方向へ威嚇の箭を放った。投石はすぐに歇み、疫の感染に慄いている邑落の百姓たちは、秦光成の野太い一声の前に呆気なく物かげから身を現わし、次々と四方八方から群がり出でて、ずらりと地べたにひれ伏し追従した。


  物部広宗の一行は筑紫を発った後、急いで京へ向かうところであった。疫瘡の流行が畿内にまで及び、朝廷内においても民部卿の藤原房前(ふささき)の死後以来、光明皇后の実兄でもある藤原麻呂、右大臣藤原武智麻呂(むちまろ)、式部卿兼大宰府帥(だざいのそつ)の藤原宇合(うまかい)ら高官がたてつづけに薨じてしまい、この藤原四兄弟が歿したことで、朝廷内部に政権の動揺が奔ったからに他ならない。物部広宗は筑紫官軍の将ではあったが、仏教や学問にも暇をみつけては渉猟するのを好んでいた。そこへあわただしく上京の指令を受けたのである。時は天平9年(737)の晩秋であった。長門の僻陬の地でぐずぐずしてはおれぬのであるが、これも広宗の風尚と才覚が邪魔をした結果であった。
  そもそも聖武天皇が天下の罪人を大赦し、全国の飢疫の百姓に賑給(しんごう)の詔を発したのがこの年の夏5月のことで、長門においても秋7月に賑給があった。それというのも朕自らの不徳が原因で旱(ひでり)と疫とを招いてしまった、という天皇の高徳ゆえが、すなわち物部広宗の人格へも自然に薫陶を及ぼしていたのである。

(2001/05/25)

  聖武天皇の仏教信仰には並々ならぬものがあった。一切経の書写願文には「朕万機の暇を以て典籍を披き覧るに、身を全くし命を延べ、民を安んじ業を存するは、経史の中に釈教最上なり。是に由りて、仰ぎて三宝に憑(たよ)り、一乗に帰依す」と陳べられたほどである。8月15日には、天下太平国土安寧のために宮中15ヶ所において僧700人に大般若経、金光明最勝王経とを誦ませ、さらに400人を得度された。全国にも578人の出家を認められた。そして8月23日には、正五位下の巨勢朝臣奈氏麿を造仏像司の長官とし、26日には玄昉(げんぼう)を僧正、良敏を大僧都とされたのである。
  物部広宗は秦光成を長門の厚狭郷にのこして、残る騎兵10騎の部下を従え先を急いだ。平城京(ならのみやこ)では石上朝臣乙麻呂(いそのかみのあそみおとまろ)卿が広宗の上京を待ちあぐんでいた。乙麻呂卿は、霊亀3年(717)に薨去した左大臣石上朝臣麻呂の第三子で、地望清華、人才穎秀、容閑雅にして、はなはだ風儀が立派との評判であった。その上、大変に篇翰を好み、詩人の風体(ふうてい)も具えているとのことである。

  秦光成が長門の厚狭郷において百姓に防疫対策を太政官発行の官符どおりに、正しく徹底的に指導した後、物部広宗の一行に追いついたのは翌々日の午前、安芸の風早浦においてであった。
  投石を受けていた奴婢の女は、広宗の立ち去ったあと、翌日未明に手当ての甲斐もなく高熱と発作のために息を引き取った。小娘のほうは意識を失ったものの、紫鉚(紫鉱)を与えてやると命は取りとめた。この天竺産の新薬は、秦光成が天平6年(734)に遣唐船で唐より日本へ帰国した際に持ち帰ったものである。紫鉚は裳瘡に効くはずであった。秦光成は長安の都で、他に桂心、芫花、人参、大黄、狼毒などといった薬品を手に入れるために街をさんざん練り歩いたが、同じ帰国船に乗っていた玄昉の場合は、18年間の永い在唐中に玄宗皇帝より紫の袈裟を賜るほど名声高く、帰朝の際には新様式の仏像と5000余巻の経論が手土産であった。
  風早浦から船路を選んだ物部広宗は、島嶼の美しい内海をゆっくりと航行しているあいだに、船上で『華厳経』の経典を繙いた。はなはだ晦渋なこの新しい仏典教義を少しでも理解しておくことが、聖武天皇の意に叶うことでもあり、筑紫の一将軍としての立場からも当然のことのように思っていた。天平8年(736)に来朝した唐僧の道(どうせん)が、華厳の注釈書をもたらしてくれたことは何よりもありがたかった。

(2001/06/01)

  天平5年の第九次遣唐船4艘は、往航においては順風を得て無事に唐土に着きはしたが、復航においては第一船が天平6年、第二船が天平8年、第三船と第四船は遭難漂流して、ついに生還できず、二艘だけが日本へ帰国することができたのである。594人の遣唐使の一行のうち、故国日本へ戻れたのはそのうちの半分余りであった。入唐大使の多治比広成、副使の中臣名代らは、帰路において暴風に遭い唐土に吹き戻されはしたが、比較的早く日本の多禰島に着くことができたのに、後船に乗船していた半官平群広成の船は遥か南方の崑崙まで流され、どうにかこうにか渤海船で日本の出羽の海岸に漂着することができたのは、最初に唐の蘇州を出帆してから、実に6年の歳月を閲し徒にしたのであった。

  秦光成は大使の乗った第一船に同乗していたので、運がよかったといえる。その第一船には、秦光成が洛陽で識り合った龍門の石工林永邱とその弟子十数名が乗船していた。ただ、玄昉と真備(まきび)が一緒だったために、彼ら石工たちの存在感はさほど目立たず薄らいでみえた。学問僧として入唐し立身出世を果たした玄昉もさることながら、やはり留学生として入唐した真備も、永い在唐を経て、帰国時には『唐礼』130巻、『太衍暦経』(たいえんれきけい)1巻、『太衍暦立成』12巻、弦楽器調律用の銅笛一式と方響12枚、『楽書要録』10巻、漆塗り角弓三張などといった多彩な手土産を持ち帰り、それらを聖武天皇に献上するや、一介の従八位下という最低の位階官人から、いきなり正六位下大学助(だいがくのすけ)に叙せられ、徐々に立身出世の階段をのぼりはじめたのであった。
  第九次遣唐使復航の第二船には、副使中臣名代、唐僧道、波羅門僧菩提僊那、波斯(ペルシャ)人李密翳らが乗っていた。その道が渡日し、大宰府に到着した際に、物部広宗は華厳なる新しい教義が入ったのを識ったのである。そして道の入京のために、広宗は筑紫から摂津の難波津まで随伴したのだった。

  あれから一年、道の拝朝以来、広宗は久しぶりに和んだ気持ちで船旅にあった。大小さまざまな島かげを浮かべた紺碧の海路と、澄み渡った蒼穹の下で、風こそは凛として冷たかったが、穏やかな航行であった。

(2001/06/15)


         (二)

  安芸風早浦を発って、内海で見る日の出と日没の繰り返しはいつも倦きることなく、その風光明媚な景色は、広宗をして内陸の差し迫った火急の事などまったく時を忘れさせた。備後長井浦、備中神島(こうのしま)、多麻浦、備前高島宮(たかしまのみや)、播磨明石浦(あかしのうら)などを寄港しながら難波津の港にようやく着いたのは10月の初旬で、筑紫を出てからすでに半月余りも日数をかけてしまった。本来ならば、山陽道を騎馬で以って突っ馳る予定であったが、あまりにも疫瘡蔓延の屍体があっちこっち道端にごろごろと放置されたままなのを見兼ねて、物部広宗は陸路を避け、海路で上京することにしたのである。秦光成には長門の厚狭郷で、途中より海路に変更するやも知れぬ旨を言っておいたのだ。

  河内に入ると、二人は再び騎兵を率いて、大倭やまと国へと急いだ。京ではすでに9月28日に、公卿のなかでかろうじて疫瘡から免れた従三位鈴鹿王を知太政官事に、従三位橘宿禰諸兄を大納言とし、正四位上多治比真人広成を中納言として、政権恢復の再建がはじまっていた。石上朝臣乙麻呂は正五位上で、この年つまり天平9年(737)9月においては、第九次遣唐使の判官平群朝臣広成はいまだ唐土に漂泊したまま帰国していなかった。

  平城京に着いた物部広宗と秦光成は、騎兵を伴ったまま羅城門をくぐり、北へまっすぐにのびた朱雀大路をそのままゆっくりと進んで、朝堂院のある朱雀門へ近づいた。黄葉した楊柳と欅(けやき)の街路樹に、午後の陽射しが照り耀いて、まばゆく、きらきらと光の粉が溢れ散っている。
  大極殿と朝堂院のある平城宮には、むかって正面に三つの門があり、中央に朱雀門、その左右に若犬養門と壬生門があって、それぞれ門の外と内には衛士(えじ)が警護に当たっていた。築地大垣で囲まれた宮内には、その他に皇族の内裏(だいり)はもちろん、さまざまな官(かんが)が軒を並べて、かなり広い。
  長旅の騎兵を朱雀門の外に待たせて、石上乙麻呂卿を訪ねて入門した物部広宗は、朝堂院の門で、乙麻呂卿の不在を聞かされ、いま六条東三坊の大安寺にいるのを知った。
  朱雀門前を東西にのびた二条大路には、長安の街路を想わせるような楡(にれ)の並木が新しく植込んであったが、とても長安の都のようには及ばなかった。

(2001/07/05)

  筑紫の部将として軍功を樹てていた物部広宗の配下に、秦光成が従属するようになって、まる2年になる。医師(くすし)として渡唐した光成が、わずか1年で帰国したのは、留学が目的だったからではない。長安で生まれて育った光成は、養老2年(718)に第八次遣唐使らと一緒に渡日し帰化したのであって、日本の遣唐使の要請により日本へ医薬の知識を伝えに来たのであるから、天平5年(733)の渡唐は祖国へ新薬の情報を蒐(あつ)めるのが目的だったにすぎない。

  秦光成は日本での久し振りの入京に、長安の街(がいく)を真似ている平城京にあって、やはり祖国のことが思い出されて仕方がなかった。日本語も唐語も話せる光成は、大宰府において通訳の役目も兼ねてはいたが、上京して同じ祖国の唐人と出会うことは、より楽しみの一つではあった。京内にいるはずの林永邱と彼の弟子たちとの再会は、そのなかでも最も期待が大きかった。唐と日本との両国間の航海は、これまで三度とも命がけの船旅であった。

  天平6年の日本への航路において、林永邱は船上で秦光成にこう言った。
「もし生きて日本へ渡れたら、御仏(みほとけ)に感謝の気持を込めて、俺は、これまでに彫ったことのないような石仏を彫らねばなるまい」
  龍門の石工林永邱は、さりげなく秦光成にこう呟いてから、
「ところで、お前はどこの生まれだ?」
  と訊いた。秦光成は、
「長安だ。お前はどこだ?」
  と言うと、林永邱は誇らしげに答えた。
「洛陽にきまっている。先祖代々から伊水のほとりに棲み、千仏洞の開鑿(かいさく)を受け継いでいるのだ」
「先祖代々とは、いつの頃からだ?」
「孝文帝の御代からだ」
  林永邱は顔をちょっと顰(しか)めて答えた。
「孝文帝って、北魏の頃か?」
「そうだ。北魏の第六代皇帝の御代からだ。その時、都は洛陽だった。文句があるか?」
「別に、文句などはない。ただ……」
「ただ何だ?」
「どうして故郷を離れる気になった? もう再び故国へ帰れぬかも知れぬぞ。それでも、いいのだな?」
  秦光成は林永邱の鋭い眼光を静かに視つめて、穏やかに問うた。
「ばか。お前が俺を日本へ誘ったんじゃないか。お前に誘われなかったら、俺はずっと龍門で仏を彫っていたのだ」
「後悔しているのか?」
「ばか! なんで後悔しなきゃならんのだ。龍門だろうが日本だろうが、仏を彫るのに変わりはないではないか」
「そうか」
  秦光成は林永邱の意気込んだ眼から視線を逸らし、うつむいて安堵した。

  眼球が充血しやすいのか、いつもぎょろっとした赤い眼玉の林永邱は、部厚い唇を尖らせ、長い首をぬっと擡(もた)げたまま、濃い眉毛で光成を睨みつけた。林永邱の憮然とした表情は、どう表情を変えてみても憮然と見えるのが、彼の最も彼らしい特徴だった。
  故国越州の港を解纜(かいらん)して再び日本へ向かった官船は、不安定な気候と季節風と波に翻弄されながら、大海に浮く木の葉の如く漂蕩し、ひたすら観音菩薩の示現(じげん)を信じて、わが身の幸運と浄土願生(じょうどがんしょう)を船の上で、彼らはただ必死に祈り続けるしかなかったのである。

(2001/08/01)

  六条東三坊の大安寺には、かつて唐に留学した道慈と、昨年渡日して帰化したばかりの唐僧道(どうせん)がいた。石上乙麻呂は二人の名僧というよりは明哲に、疫瘡で騒乱状態になっている世の中を鎮護するにあたって、よい知恵を借りに相談に来たのであった。
  これまでのような神道中心の宗教政策では、覚束ないばかりか、この際はっきりと政府も首鼠両端(しゅそりょうたん)の戸惑いを切り棄てて、呪力で以って祈祷するような仏法も、何やらいい加減なのではないか、もっと明確に正しい教義に基づいた仏教政策を打ち出すべきで、より肯定的に積極的に調伏(じょうぶく)すべきである、というのが乙麻呂卿の考え方であった。

  つい最近では、聖武天皇も仏教国家の確立を急いでおられ、観世音菩薩の化身であったろう聖徳太子の霊を慰めるために、以前斑鳩宮(いかるがのみや)のあった所に夢殿という八角堂をお建てになるご予定で、自分も早速その法隆寺東院を訪ねてみたばかりだ、と乙麻呂卿は二人の明哲に語りかけた。
「私はもうとっくに、呪経は処分しておる。玄昉がわざわざ唐から持って来てくれたものだが、あいにくと私の性に合わぬのでな」
  道慈はきっぱりと言った。
「ほう。どう処分なされた?」
  と乙麻呂卿が訊くと、
「風呂焚きの薪と一緒に、経文はすべてべてしもうたわい」
  と道慈は答えた。
「経巻はどのくらい焼いたのだ?」
「大した数ではない。300巻ほどだ。門人たちに残して置いても、ためにならぬのでな。呪経などというものは、裏を返せば懈慢界(けまんがい)じゃ。のう、道……?」
「玄昉には、常楽我浄(じょうらくがじょう)の思想と懈慢界とが、混同しておるのであろう。涅槃経こそ大乗仏教の帰結だということが、あれには判らぬのであろう」

  道は瞑目とも半眼ともつかぬ表情で、道慈に返事をした。眼をカッと開けるのが、さもだらしいといった無体である。なるほど口許には、幽かな微笑が漂っていないでもない。
  石上乙麻呂は内心では道慈に腹が立っていた。たとえ呪経といえども、経典を焼いてしまうこととは、事が別問題である。それら経典の多くは、名も知れぬ日本人の留学生や留学僧が在唐中に何年も何十年も苦労して、祖国日本のために写経したものばかりであろうし、海を越えて無事に伝えられているということだけでも、経巻を焼却するとはもってのほかである。しかも紙ほど大事なものはないのだ。乙麻呂卿は、そういった道慈の傲慢さが、僧侶として惜しいような気がしていた。

「どういう呪経を焼いたのだ?」
  乙麻呂卿は静かに問い糺した。
「くだらんものばかりですぞ。よくもあんなものを、玄昉は持ち帰ったもんだ」
  道慈は乙麻呂卿に渋々と呪経の経巻名を述べてみた。十一面神呪心経、不空索神呪心経、観世音菩薩如意心陀羅尼呪経、不空陀羅尼自在王呪経……といったものであった。いかにも道慈は不愉快そうだった。
「ならば、どういう経典がいいのだ?」
  乙麻呂卿は道慈を見据えて、直截に尋ねた。
「経蔵には、一切経のほとんどが揃うておる。どれもみな大した経巻ばかりじゃ」
  道慈は答えた。乙麻呂卿はもう一度、同じ質問を繰り返した。
「呪経以外はどれもみんな秀れておる」
「で、どれがいい?」
「どれと言われても困る。膨大な数でのう。鳩摩羅什くまらじゅうの漢訳ならば、どれもよかろう」
  道慈は仕方なく頭に思い浮かんだものから、経巻名を挙げた。
『大般若波羅蜜多経』『中阿含経』『観弥勒菩薩上生兜率天経』『仏頂尊勝陀羅尼経』『自愛経』『妙法蓮華経』『千手千眼陀羅尼経』『楞伽経』『勝師子吼経』『大方広仏華厳経』『大威徳陀羅尼経』『梵網経』『大智度論』『成唯識論』『中論』『大乗起信論』『説一切有部発智大婆沙論』……。

(2001/08/17)


         (三)

  天平元年(729)に律師となった道慈は、大宝元年(701)に入唐し、養老2年(718)に帰朝していたが、彼が在唐中に最も学を窮めたのは『三論』であった。すなわち鳩摩羅什の訳した龍樹著『中論』、同著『十二門論』、提婆(だいば)著『百論』である。もちろん他の経典もすべからく渉覧していた。
  そんな道慈にとって、仏法を権力に結びつけて世渡りをするような玄昉や行信らと、氷炭相容れぬのも無理はなかった。であるが故に、乙麻呂卿もこうしてわざわざ高徳の僧に会いに来たのであった。

  大安寺の境内に夕闇が迫る頃、そこへ物々しい馬蹄の音を響かせながら、石上乙麻呂卿を訪ねて来たのは、はるばる筑紫から長旅を終えたばかりの物部広宗と秦光成の二人だった。彼らの部下には、すでに宿舎で休むように命じてあった。
  花園院の一坊に案内された物部広宗と秦光成は、久し振りに会う乙麻呂卿と道の元気そうな姿を見て、手短かに久濶を叙した。
「どうだ広宗、西海道の状況は?」
  乙麻呂卿が尋ねた。
  物部広宗とは従兄であった。広宗の父系も石上朝臣(いそのかみあそみ)を賜姓されていたが、広宗はあえて名門の誉れが高い物部連(もののべのむらじ)姓を頑として自ら守り抜いていた。大連物部守屋の系譜をひいていることに、改名しなければならぬような理由も恥辱もないからだ。
「疫瘡の流行は一向に止まぬ。西海道も山陽道も同じであった。こっちへ来て、畿内にまでたいそう及んでいるのには、想像していた以上だ」
  広宗は答えた。道はひとり「ううん」と唸ったが、道慈は無表情であった。
「長門の国では、疫(えやみ)を患った者に石を投げつけておりました。あの母娘(おやこ)は気の毒でありましたな、物部さま」
  秦光成が言った。
「ああ、そうであったな。あれは、長門のどこであった、秦?」
  広宗は思い出したように訊いた。
「あれは長門国の、たしか厚狭郷(あずさのさと)であったように思いますが、小娘のほうは命を取りとめてやりました。あの土地には海際に、祭祀の山がございました」
「佐婆(さば)の海際に、太子怨霊を鎮める慈悲観音を一つ、お建てになられては如何でしょうな、卿殿?」
  道が乙麻呂卿に言った。

「帝(みかど)は諸国に丈六の釈迦三尊像を造るよう命ぜられたばかりだ。聖観世音で以て鎮護すれば、なおさら支障はあるまい。周防の熊毛浦(くまけのうら)か豊前の分間浦(わくまのうら)あたりに、海神(わたつみ)を祖にしている安曇(あずみ)一族に、観音の寺を造立(ぞうりゅう)させるがよかろう。伽藍の造営は、大和法隆寺の夢殿と期日を合わすのがよい」
  石上乙麻呂は天皇の御意(ぎょい)を斟酌して、道に言った。

(2001/08/24)

  大安寺に初冬の残照も翳ると、ひえびえた庭先の暗がりから、つんと樹木の芳香が鼻につきはじめた。道慈が養老2年に唐から持ち帰った金木犀の嫩木(わかぎ)が、20年ちかい星霜を経て、ようやく人の背丈ほどまでに成長した植木である。
  ただ道は道慈とちがって、金木犀をあまり好まなかった。自己の存在を執拗に主張し過ぎて、親しみが湧いて来なかった。同じ潅木でも自己を主張せずして、見事に咲き、見事に落花してゆく、牡丹(ぼたん)のような清雅な花木が好きだった。道は唐を去ってから、ときどき牡丹の花が恋しく思われた。牡丹といえば、何と言っても長安の都が懐かしかった。それも延康坊の西明寺に咲く牡丹である。
  その牡丹の花には、青年時代の一つの憶い出が残っていた。道がまだ出家する以前のことで、玄宗皇帝の御世、開元6年(718)、当時若干17歳の春であった。

  道の俗姓は衛氏、祖先は衛霊公(えいのれいこう)を後胤伝承とし今日に至っていた。青年衛昌順こと道が、義寧坊の波斯(ペルシャ)寺で碧眼金髪紅鬢(こうびん)の胡姫(こき)と知り合い、至純な恋仲に陥ったのは、まさに3月中旬、牡丹の季節である。胡姫の名は姚玉蘭(ようぎょくらん)、西市の酒楼に身柄を売り飛ばされ、そこで働かされていた女だった。波斯寺に逃げ込んでいたところを、追手に危うく殺されそうになり、昌順が女を高く買って助けてやったのだった。ところが、自由の身となった女は、さっさと衛昌順のもとから恩義も忘れて行方を晦ましてしまったのであるが、こんどは西市の酒楼で二人は偶然にもばったりと出会ったのである。前とは別の店の酒楼だった。いささか軽薄そうな女だった。
  姚玉蘭は一瞬びっくりして怯んだが、昌順が何もせず大人しいので、玉蘭のほうから恐る恐る声をかけて来た。昌順は聞かれたことしか返事をしなかった。女もだんだんつまらなさそうに不満な表情で、
「逃げたりして、ごめんよ」とだけ言った。
  そして、昌順が酒楼を黙って出てゆくと、玉蘭はまるで何か損をしたような気がして来て、彼を追い駆けた。
「ねえ、何が気に入らないのさァ?」
「……」
  昌順は無視して、さっさと歩いていった。だが、心の中では「俺はお前の美貌に、少しだけ気の迷いがあっただけのこと」と自らの衝動を否定しようとした。にもかかわらず、歩調は到頭ゆるくなって、そこで立ち止まってしまった。そして、ゆっくりと踵を返し後ろを振り向いた。玉蘭の哀れな立ち姿を見て、
「俺はお前を買った。俺の女になってくれ」と、自分でも思いも寄らぬ言葉が口を突いて出てしまった。見る見る顔が赤くなってゆくのが、自分にもわかった。すると、
「最初から、素直にそう言えよ」とずいぶんぶっきらぼうな口調で玉蘭が応えた。自分を大事に扱ってくれる主人なら、まるで誰でもよかった風な言いまわしだった。
  あまり賢くない野卑な女だが、衛昌順は彼女の若い肉体と美貌にゆらめいて、彼女を連れて帰ったのだった。
「そのうち、お前は俺に飽きるかもしれないが、飽きたら、いつでもお前のことを解放してやる」
「あんた、妙なことを言う人なんだね。わたしはあんたを気に入ったよ。そこいらの男衆よりあんたの方がよっぽど立派だと思うけど」
「お前は言葉に訛りがあるが、どこから来たんだ?」と昌順が訊くと、
「えーと、あっち、あっちさ」と玉蘭は西の空を指差して言った。
「えっ。そうか、あっちか。わかったわかった、変わった女だな」と昌順はやっと笑った。

  姚玉蘭は(うてん)(※ホータン)の女で、両親は共に胡人で景教(※ネストリウス派キリスト教)を信奉していた。だが、唐と吐蕃(とばん)との戦況が悪化して来ると、の都邑は戦さに巻き込まれて、姚一家はたちまち離散を蒙り、玉蘭は貿易商人の隊商と一緒に、はるばる長安の都まで漂泊の運命に晒されてしまったのである。
  牡丹の季節に彩られた西明寺の境内には、また訶梨勒樹(かりろくじゅ)の珍しい木があり、道はその木かげで姚玉蘭と春を謳歌したものだった。さすがの女だけあって、碧玉の首飾りがよく似合い、歌もうまかった。

(2001/09/07)
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「厚東」第28集(厚東郷土史研究会 昭和61年作品)より
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挿入音楽は「フリー音楽素材 H/MIX GALLERY」(管理者:秋山裕和氏)より使用しています。
曲名: オープニング曲 「飛翔」





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