「ボクは美味しくない。やめるんだ」と史郎は血相を変えて怯んだ。
「可愛い、史郎ったら。生身の人間って、寿司よりも美味しいんだから」と芽芽子は言いながら、すっぽりと史郎を絡めて丸呑みにした。史郎が小さくなったというよりも、クラゲの芽芽子が突然十倍に肥大化したのだった。五メートルの半透明ドーム状内に、史郎は丸められていた。よく見ると、史郎の顔の横に何かがくっ付いている。史郎の右耳にナマコの不夜子が覆い被さっていた。すでに耳たぶが消えている。不夜子がもう食べてしまったのだろう。反対側の左の耳たぶも無くなっていた。
「ねえ、芽芽子や。史郎の耳たぶって、フォアグラよりも美味しいわよ」と不夜子。
「史郎の右足も美味しいわよ。(とり)もも肉みたい」と芽芽子は、史郎のふくらはぎを頬張りながら言った。


「やめてくれッ!」と史郎は病室のベッドから起き上がってハッと目が覚めた。大声を出してしまったので、小さな声で「すみません」と病室の患者たちに謝ったが、誰もしゃべらなかった。病室はシーンとして寝静まっていたが、一人だけ微かに(いびき)をしている。史郎が病室から廊下に出ると、東側廊下の突き当たりの窓がうっすらと赤く染まっていた。廊下も少しずつ赤く染まって、朝焼けを迎えているようだった。もう一日だけ、生きていたいと史郎は思った。(完)
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短編小説集『ブルーベリーの王子さま』

(2021/08/12)

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