岬の蜂

 生まれてこの方、キャッチボールをしたことがないから、いちど相手をしてくれないか、と順一は笑いながらわたしに頼んで来た。フランスに二年留学して日本の大学を二つ卒業した英語教師の順一が、自宅からグローブを二つ持ち出して、一つをわたしに差し出した。キャッチボールを一度もしたことがないのにも驚いたが、極真空手の段を持った黒帯の彼がそんな頼み事をして来るとは、さすがに面食らった。
 生まれて初めて投げた彼のボールは勢いよく地面を叩いて、ポーンと高く宙を舞った。次のボールは、わたしの立った場所とはあらぬ方角へ転がっていって、わたしを十メートル以上も走らせた。遠く右に飛んでいったり左に転げていったり、いつの間にかわたしは汗だくだくとなってしまった。キャッチボール以前にボールの握り方、投げ方まで基本から教えないとダメだとわたしは思い、丁寧に教えていった。同じ大学の同期だった順一とわたしは、この時まだ三十歳過ぎだった。
 順一は年下の綺麗な奥さんと棲んでいたが、その彼の横浜の藤が丘の自宅マンションには十日間ほど引き留められて世話になった。キャッチボールでわたしの革靴の踵がはずれて破れると、彼が同じサイズの自分の革靴をわたしにくれた。柔らかい上等な革靴だった。その靴でわたしは高知の足摺岬まで旅を続けた。十二月なのに崖の上の道端には黄色い花々が咲いていた。しゃがんで花を見つめていると、蜜蜂が花の蜜を吸っていた。暖流のせいか、とても温かく冬の海とは思えなかった。
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短編小説集『ブルーベリーの王子さま』

(2020/09/28)

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