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山口県山陽小野田市有帆菩提寺山磨崖仏 (No.12)

左側天衣(てんね)の上下破損部

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明治の廃仏毀釈によるものか、外側から金槌のようなもので人為的に破損を蒙っており、自然災害や風化によるものではないことがよく判る。昭和5年に石仏が完成して開眼供養したとする昭和制作説があるが、制作主とする禅僧・村田宝舟がこの磨崖仏と一緒に記念撮影している写真を見ると、左側天衣の上下破損部が今と変わらない同じ形状で破損している様子が写っている。当人が彫ったものではないことが一目瞭然として判断できる。山林で偶然発見した石仏を、さも自分が全部彫って仕上げたかのように、功名心から手柄にしたかったのであろう。そして、記念写真を添えることで自分への称賛も欲しかったのであろう。いかにも昭和の時代にふさわしいウソといえる。昭和初期制作説を持ち上げた地元の愚かさにも呆れるが、学術的に検証できない文化人の不毛ともいえる。山奥で石を削っていた音がいつもしていた、との当時の口伝えを鵜呑みにしていた人心にも呆れる。

花崗岩の自然石に丈六サイズの半肉彫りがこのように一人で彫れる石工が、昭和の日本にいるはずもない。第一に彫る動機付けがこの時代には無い。また、技術も石工職人の数も揃ってはいない。すぐに摩耗してしまう鏨の鍛冶職人も何人も必要で、この石仏を完成させるには仏師の他に何十人もの手伝いが必要となる。まして、今日のようなダイヤモンドタガネのようなものは昭和初期には存在していなかっただろうし、一介の禅僧の身分で買えるような代物でもない。石を割るのはたやすいが、普通の鉄タガネでここまで石仏を彫るのは何十年も石工の職をして来た者にしか造れない。


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昭和5年開眼供養時の写真(オノダ新聞社蔵)
石仏の右側下に禅僧・村田宝舟の姿が写っている
陽射しによる宝髻と天衣の日影が重要な手がかりとなって来る
(現在オノダ新聞社は無い)


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天衣の破損については、今から136年前の明治3年頃にこの地においても廃仏毀釈に遭ったのだろうが、この程度の難で済んだのを幸いとすべきかもしれない。力強い見事な半肉彫りの菩薩の石像を正面切って破仏するには、やはり人間心理としては怯み、これ以上は出来なかったのではなかろうか。この程度にしか破壊することが出来ず、良心のひとかけらくらいは残っていたのだろう。天衣の破損部分も136年が経てば、いくらかは雨や雪で石も少しは丸くなるようだ。風雪や人災に耐えながら、石仏もじっと辛抱しながら生き続けているようにみえる。古代人の心が伝わって来るようだ。

(2006/07/24)

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制作・著作 フルカワエレクトロン

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