ホーム


石仏論考  山口県山陽小野田市有帆菩提寺山磨崖仏  新編・最終メモ
日本に書き遺す石仏文化財資料・令和最後の記録


文・写真 古川卓也
文字サイズの変更: | | |
はじめに
石仏を題材とした著述関連
参考史料
  (1)磨崖仏を主体とした関連資料
  (2)古代史と仏像に関する参考文献
  (3)歴史小説『冬の門』と参考史料
  (4)仏教史論考『砂の城』と参考文献
今後の課題と新たなプロジェクト
最新石仏公開写真
  No.1 No.2 No.3 No.4 No.5 No.6 No.7 No.8 No.9 No.10 No.11 No.12 No.13
花崗岩と石仏誕生までの軌跡を探る
   (1)自然石の花崗岩に石仏はどのようにして彫ったのか、第一の謎
TOPICS
 2007年 3月24日  調査委員会、制作年代を特定できず終結
 2006年12月 7日  新聞「宇部日報」(宇部日報社)に掲載
 2006年11月 3日  「厚東」第48集 (厚東郷土史研究会)に発表

公開写真 INDEX
No.01  顔(正面)
No.02  上半身
No.03  下半身(裳と天衣)
No.04  自然石の花崗岩全体と石仏の側面(Photo.1)
No.05  石仏の正面と側面を比較配置(Photo.2)
No.06  白鳳期の名残りを漂わす蓮華座
No.07  左側から眺めた拡大蓮華座
No.08  蓮華座の写真デザイン
No.09  裳の衣紋拡大写真(レリーフされた花崗岩の表面)
No.10  下から見上げた周尺十二尺像(古代の古尺制作技法)
No.11  題名「慈光」
No.12  左側天衣の上下破損部について
No.13  昭和5年開眼供養時の記念撮影写真コピー


  はじめに  「厚東」第48集(厚東郷土史研究会 2006年)向けWeb版改訂起稿】


この石仏の記録は、人間が人間の私欲によって正当に誰からも顧みられることもなく、野晒しにされ続けた悲しい文化財のドキュメントである。土地争いと石仏所有権争いをして来た昭和のあさはかな人間たちによって埋没し、地元の観光資源にもならず、学術的発掘調査もされないまま今日に至ったのである。平成17年にいよいよ石仏のある土地の所有権が地裁を経て山陽小野田市に正式に移譲されたことを受け、この3月からあらためて本格的に市文化財の調査が始まり、制作年代の昭和時代説か奈良時代説かの決着がつけられる運びになった、と言うのだが、これまでこの石仏を学識者らによって史学的に学問的に科学的に調査されることが一度とてなかったのも事実である。有名な見識者らが仏像の様式論ばかりに固執して、本当の歴史背景から鑑みた意味付けとしての学術的研究はされてはいない。わずかに専門家らが造立されている古代様式と照合して書き留めているにすぎない。それからもう20年ばかりが過ぎて、また再燃し始めたわけだが、どこまで調査されるのかは、またしても未知といえるだろう。

(2005/03/03)


私はそれを繰り返さないために、20年前にすでに自分でそれらを解明すべく、あらゆる角度から学問的に調査をして、客観的論点から科学的視点から出来るだけ幅広く究明するように当時は努めた。それはすでに1985年に論文で郷土史誌に発表している。それから現在に至るまで、この20年間もの歳月のあいだに、いくつかの石仏をめぐる著作も発表して来た。一つは、厚狭郷(あづさのさと)磨崖仏造立とも関わり大和朝廷とを往き来する筑紫官軍の将を配した奈良時代が背景の歴史小説である。もう一つは、廃仏棄釈があった明治初期の頃の厚狭郡を舞台とする歴史小説である。これら二つの歴史小説も郷土史誌に発表して来た。さらには、遥か広大な中国大陸でも繰り返されて来た、中国仏教史に残る三武一宗の法難と呼ばれる廃仏棄釈と連関する古代中国史の北魏における歴史論文もまた発表して来た。

今後、この先どこまで次の世代に郷土の歴史文化を伝えることが出来るかわからないが、この菩提寺山の有帆磨崖仏の研究資料として少しでもお役に立てばと思い、当Webサイトに臨時特集として拙著や参考史料をここにあらためて公開するものである。宇部市と山陽小野田市の広域郷土の文化財として捉えて頂きたいと切に願ってもいる。偏執的であったり狭隘的な視野で捉えて欲しくもないのだ。今回、最後の記録となるやもしれぬ有帆磨崖仏に関する本稿『石仏論考』であるが、地元のみならず国内の石仏ファンや関心のある多くの方達に、インターネットを通じて広く目に止まり、将来、衆知の磨崖仏となれば誠に幸いである。

(2007/05/01)


なお、Web版にはこの『石仏論考』にて序文補記が書き加えられているが、昭和63年にこの有帆菩提寺山磨崖仏の拓本が私的に勝手に採られたことにより、その行為を私は激しく糾弾しており、先日来からそれが問題だとして、厚東郷土史研究会から推敲か割愛を求められて来た。研究すればするほど、国宝にも値すると思われる有帆菩提寺山磨崖仏である。この『石仏論考』を後世の参考資料として研究誌に残しておくかぎりにおいては、私も熟慮に熟慮を重ねて、結果、今の正直な自分の心情に忠実でありたいと決心した。理解してもらえない孤独、そして石仏の孤独、しっとりとした寂寥の思いに包まれながら、静かに瞑目する。

己れが尊崇するものに対して、いとおしく愛情を傾けているものに対して、心から美しいと感じているものに対して、おのれの分身にも等しい魂をたたえているものに対して、ましてそれが巨石巨像にしてこの上もない慈悲をたたえる聖観音菩薩像であるならば、菩薩のお顔に拓本目的の紙をあてがい慈眼を覆って目潰しにするなんぞは、あさはかにして幻滅の極み、いかにも現代人の欲にかられた芸術財宝感覚と古仏骨董美術品収集癖以外の何ものでもない。盗掘感覚とどこが違うのであろうか。その証拠に、この有帆磨崖仏をめぐって私以外の発表論文で一体誰が歴史背景から学問的に学術調査を試み、厚狭郡古代豪族の研究をして来たというのか。まともに防長古代史へ目も通さぬ体たらくで、ちょっとした肩書権威で傲慢な行為をすべきではあるまい。防長の古代人たちが生きるために、どのような生活様式で暮らしていたか、当時特に西日本瀬戸内沿岸地域における庶民の暮らしには、兵役による窮乏や権力による抑圧、旱魃や洪水を伴う農地耕作や塩田での労働搾取、さまざまな病や疫瘡の恐怖など、民の多くは飢えていたと思われる。現代人はもっと先祖や古代人の心情にも配慮すべきである。古代人にとって石仏は芸術作品ではないのだ。現代人の行き過ぎた愚かな芸術感覚と欲望が、石造美術という言葉に酔い痴れて狂乱しているにすぎない。正しい拓本の採り方で採ったにせよ、いくらそれを正当化して自慢したところで、世の中には、やってよい事とやってはならぬ事もあるのである。正しく採集して蝶の標本を作ったからと言って、そこには蝶の屍しかなく、蝶が殺されてしまった事実が残るだけだ。人間エゴの学問のために蝶は犠牲にされたが、自然石の花崗岩半肉彫り巨石仏への拓本が、いったい人間の何の学問に役立つというのか。石仏に屈辱を与えただけではないのか。拓本を採った目的と動機を明確にして頂きたいものである。

さて、蓮華座だけでも白鳳期の名残りを思わせる有帆菩提寺山磨崖仏だが、この実に貴重な日本国民の遺産である文化財に対して、いまだ史跡の指定にもされていないのは残念至極ではあるけれども、山陽小野田市は一刻も早く指定文化財にして、文化財保護法からも損傷されぬように守り、これからは町の歴史遺産として、もっと大切に受け継ぎながら愛すべきであろう。

石仏環境に問題もいろいろあるが、今回、厚東郷土史研究会からの依頼もあり、現在この磨崖仏研究中の最新追加記事を新たに書き加えることで、今後も多くの石仏ファンにさらなる古代史ロマンを楽しんでもらうために、気分を変え、本意とすることにした。もし、インターネットで当Webサイトを見られる機会があれば、是非ともWeb掲載の最新撮影公開写真と合わせて、さらに楽しんで頂ければと思う次第である。

(2006/08/31)

*


先週の9月1日(金)に、「このWeb版『石仏論考』を一文字一行たりとも勝手に推敲されたり割愛などの改変された場合は、私の原稿はすべて返却させて頂きます」という私の譲らない堅い意志のもと、最終的にその意志のまま、研究誌『厚東』(厚東郷土史研究会)第48集に本文のまま印刷公開されることになりました。私自身と今回の山陽小野田市の「石仏調査委員会」とは何の関係もなく、また石仏調査委員会と厚東郷土史研究会とは何の関係もありません。私が何を書こうが自由であって、調査委員会から何の責任義務や拘束を受ける理由はありません。私は断じて公人ではなく私人に過ぎません。一介の無名文士にすぎません。ただ、今回、わかったことが一つあります。調査委員会のメンバーの中で、私のこれまでの研究よりも深く豊富に学術的に調査はなされていないようです。岩石の風化の進み具合を、エコーチップで科学的に分析するという報道発表からすでに半年になろうとしていますが、その分析結果の中間報告すら未だ私の耳には届いておりません。

実は私もすでに15年前ぐらいになりますが、山口大学工学部の鉱物に詳しい先生に質問したことがあって、花崗岩の岩石に彫られた石仏の制作時期を科学的に特定することは可能でしょうか、と聞いたのです。すると、教授は無理です、とはっきりとおっしゃいました。私がなぜでしょうかと聞きましたら、いくら彫刻を岩石にしてみたところで、岩石そのものは変形しますが、岩石それ自体は何万年前何億年前からあるものでしょうから、その岩石存在時期の測定は可能でしょうが、岩石に残された石仏制作の形跡を科学的に正確に分析するのは、まず無理なのでは、とおっしゃいましたから、やはり無理かと結構ガックリしましたので、その時の教授のご返事をよく記憶しているのです。制作の推定の仕方が、百年とか1千年や2千年といった単位ではなく、地球の地殻変動単位の分析年数になるとかで、その岩石誕生の頃ならば推定できるでしょう、ということだったと思います。そして、大事なのは、やはり人間の歴史の裏付けであるようなこともおっしゃったような記憶があります。いろんな側面から探求してゆくことが最も大事であると、当時はあらためて確信したものです。

エコーチップは確かに新しい先端の技術かもしれませんが、石仏の石彫本体にわずか1ミリの非破壊検査をする限りにおいては、意外と今回の検査方法では難しいのではないかとも思っています。レリーフされていない岩石表面部分と、レリーフされた岩石表面部分との風化の進捗具合をどの種類の化学元素で波形比較して計測可能なのか、興味深くはありますが、たとえ1ミリたりとも石仏本体を欠損させる分析方法は私としてはかなり心配はしています。岩石が花崗岩というモース硬度6の結晶の固まりであるがゆえに、1ミリの欠損は10ミリの長石や石英結晶体まで、ある一定方向に向かって欠損してしまう可能性があるからです。非破壊検査とはいえ、科学的分析が実は平成の新たな石仏への破壊行為に少しでも影響を与えるようであれば、ただちに止めなければなりませんが、本当にいつまでも心配の種は鎮まりそうにありません。市は早くある程度の中間報告をしたほうがいいように思えます。

(2006/09/04)


なお、2005年7月25日に書いた序文補記は一旦削除します。いずれ推敲して再び公開する日もあるかもしれません。「はじめに」続きの上文は研究誌向け最終改訂起稿です。これ以上推敲して妥協することは本意ではありません。地元の研究誌にこの『石仏論考』が公開されようがされまいが、今は研究誌よりも私のWeb版の方を最重要としていますので、この石仏文化財の最後の記録を全国のWeb閲覧される皆様には、これからも末永く見守って頂ければ誠に幸いです。

(2006/08/31)



     【石仏を題材とした著述関連】

『有帆磨崖仏と防長の古代豪族』(古川卓也 「厚東」第27集 厚東郷土史研究会 1985年)
  論文:: 一、石仏の概況と真相  二、石仏造立の動機  三、防長の古代豪族  四、物部氏拾遺
歴史小説『曙光』(古川卓也 「厚東」第28集 厚東郷土史研究会 1986年)
Web版歴史小説『曙光』(古川卓也 2001年5月21日~2002年1月7日当Web連載)
  前編(一)(二)(三)、後編(四)(五)(六)  一部分物語を書き加えて追記新訂
歴史小説『冬の門』(古川卓也 「厚東」第30集 厚東郷土史研究会 1988年)
  春の嵐   風の門   月の桂   雪の城
仏教史論考『砂の城 ―古代中国廃仏史・北朝篇―』(古川卓也 「厚東」第32集 厚東郷土史研究会 1990年)
  一 荊の道   二 建春門の黄昏   三 天平寺の夢 ―北斉の滅亡と北周の廃仏―   四 山河巡礼

     【参考史料】

  (1)磨崖仏を主体とした関連資料

「長門国正税帳」「周防国正税帳」
(正倉院文書/竹内理三編『寧楽遺文』上巻 八木書店 1943年/竹内理三編『寧楽遺文』下巻 東京堂出版 1965年/『大日本古文書』東京帝国大学蔵版 1901年)  『寧楽遺文』の「金石文補遺」「新補金石文」は重要。「周防国玖珂郡玖珂郷戸籍」など戸籍名簿の記述はきわめて重要。
『平安遺文』(竹内理三編 東京堂 1947年)
『平安遺文』記載「東南院文書」の「東大寺封戸荘園并寺用帳」条文は重要。
「防長両国大絵図」[慶安2年(1649年) 江木二郎右衛門尉 箱入 山口県文書館蔵]
山口県立図書館内に文書館はある。閲覧室の机を隅に片付けて大絵図をひろげると迫力がある。江戸時代にこんな大きな絵図をどう使おうとしていたのか興味深い。当時の防長地図を眺めていると、海岸線や地名に重要な手がかりが見えて来る。
「校訂新撰姓氏録」(佐伯有清『新撰姓氏録の研究』 吉川弘文館 1962年)
『新撰姓氏録』と国史大系を併用することで具体的に古代豪族と民衆の関わりや暮らしぶりが垣間見えてくる。
『和名類聚抄』
『和名類聚抄郡郷里駅名考証』(池辺弥 吉川弘文館 1981年)
『倭名類聚鈔』[渋川清右衛門編 寛文7年(1667年)]
『三国史記』(青柳綱太郎編 朝鮮研究会 1914年/林英樹訳 三一書房 1974年)
「新羅本紀」条文は重要。
日本古典文学大系/日本思想大系(岩波書店)他
『古事記』 『日本書紀』 『続日本記』 『万葉集』 『風土記』 『日本霊異記』 『遍照発揮性霊集』 『三教指歸』 『懐風藻』 『空海』 『最澄』 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
国史大系
『続日本記』 『旧事紀』 『古語拾遺』 『類聚三代格』 『類聚符宣抄』 『延喜式』 『三代実録』


  (2)古代史と仏像に関する参考文献

『防長風土注進案』(天保12年 近藤芳樹編) 第十五巻 舟木宰判(山口県文書館編 マツノ書店 1983年)
問題となっている天保12年(1841)の文献であり、石仏はこの年代にすでに記録されている。にもかかわらず、これが無視され続けてきたわけだが、その問題の箇所を下記に引用しておく。これにより昭和説が覆される。下記件りの天和2年(1682)にもすでに丈六(316cm)の石仏があったと思われる。巨岩自然石の石仏を本尊として菩提寺を開基したようだ。

----------------------------------------
禅宗菩提寺古跡  岩崎寺抱有帆村にあり
堂  桁行八尺梁行六尺小麦藁葺
通夜堂  桁行三間梁行九尺茅葺
本尊  石観音 自然石御丈壱丈六尺
当時開基之儀は天和二壬戌年岩崎寺二世木雲和尚建立
----------------------------------------


「朝鮮出兵と内海地域」(鬼頭清明 『古代の地方史』第2巻 朝倉書店 1977年)
「天平十二年藤原広嗣の乱の一考察」(横田健一 『白鳳天平の世界』 創元社 1966年)
「仏教文化の受容」(松下正司 『古代の地方史』第2巻 朝倉書店 1977年)
「凡直国造と屯倉」(八木充編 『古代の地方史』第2巻 山陰・山陽・南海編 朝倉書店 1977年)
「大分・長谷寺の銅造観音菩薩立像」(久野健 『白鳳の美術』 六興出版 1978年)
「書紀の主張する入鹿暗殺正当化の論理」(梅原猛 『隠された十字架』 集英社 1982年)
「物部連」(忠田淳一 『古代氏族の性格と伝承』 雄山閣 1972年)
『中国仏教史辞典』(鎌田茂雄編 東京堂出版 1981年)
「奈良時代石仏と造像法」(太田古朴 『史迹と美術』519号 史迹美術同攷会 1981年)

(2005/03/04)


  (3)歴史小説『冬の門』と参考史料

『冬の門』は明治初年、全国的に巻き起こる廃仏毀釈の嵐の煽りを受けた頃の長門地方を舞台として時代背景が設定してある。第一章はそれで「春の嵐」と名付けた。明治維新とは、日本の貴重な仏閣や仏像などの文化遺産が次々に焼き討ちに遭う悲運な時代でもあった。奈良時代から始まった神仏混淆という日本風土特有の神仏融合文化も、明治維新によって、慶応4年(1868)維新政府の祭政一致により神仏習合は廃止され、明治天皇の王政復古宣言がなされたことによって江戸幕府もついに倒壊するわけだが、幕末頃の仏教衰退や神社神官の冷遇疲弊といった宗教の凋落の時期に合わせたかのような維新勃発は、確かに誰もが目も覚めるような出来事であったろうし、近代化の潮流が一気に押し寄せて来た反面、一方で日本国自らが取り返しのつかない日本固有の文化遺産を損失させたことは、今思えばその大事件たる打撃はあまりにも激烈きわまりなく何とも悔やまれてならない。現在日本各地に残された仏閣や仏像、あるいは石仏などといった貴重な日本の仏教文化が、これからも一点一体たりとも破壊されたり焼失したりしないように願いたいものである。昭和24年の法隆寺金堂火災で焼失してしまった、世界遺産にも値する十二面壁画は、いともたやすく、1300年間もの永きに続いた歴史を闇に葬ってしまったわけだが、花崗岩に彫られた有帆の菩提寺山磨崖仏が奈良時代制作のもので今日まで残っているのは、実に奇跡なことなのに、その古代ロマンが現代人に見えないとは何とも憂うべきことではある。


『新編 明治維新神佛分離史料 第九巻 中国・四国編』(辻善之助、村上専精、鷲尾順敬 共編  名著出版  1984年)
明治初年の廃仏毀釈に際して、歴史の真実を書き残す者、権力によってそれを封印しようとする者、明治の終り頃より「佛教史學」など大正昭和にかけて現代に至るまで日本のあらゆる歴史学者と言語学者を総動員して、明治維新神仏分離の真相と実態を解明すべく、100年の歳月をかけて受け継がれている渾身の第一級蒐集史料集である。これ無くして拙稿『冬の門』は書けなかったと言っても過言ではない。
『新編 明治維新神佛分離史料 第一巻 総説編』(辻善之助、村上専精、鷲尾順敬 共編  名著出版  1984年)
「序辞」(村上専精) 「神仏分離の概観」(辻善之助) 「解説」(圭室文雄) 「社寺取締類纂分類目次」(圭室文雄、根本誠二) 錚々たる歴史学者が迫真の史料を公開してゆく。

『新編 明治維新神佛分離史料 第八巻 近畿編』(辻善之助、村上専精、鷲尾順敬 共編  名著出版  1983年)

『明治維新 廢佛毀釈』(圭室諦成 白揚社 1939年)
『神仏分離』[歴史新書<日本史>113](圭室文雄 教育社 1986年)

(2005/03/09)

TOP


  (4)仏教史論考『砂の城』と参考文献

拙稿仏教史論考『砂の城 ―古代中国廃仏史・北朝篇―』は、その平凡なタイトル『砂の城』に実は大きな意味を含んでいる。中国の古典文学に楊衒之の『洛陽伽藍記』というのがあって、北魏洛陽の仏教の栄枯盛衰顛末記録なわけだが、なにゆえ栄華をきわめた北魏仏教がやがて衰退の道を辿らねばならなかったのか、その根幹となる要因が、実は今も昔も人間の本性という観点から国や年代に関係なく、あまり変わらないということである。人間の考えていることは、いかなる野望も知れていて、砂の城と何ら変わらないということだ。権威と名声や栄達の欲にかられて、高僧が仏教の経典を講経することで、民衆の心理を支配したり、権力という盲信にふられながら奴隷にされたり、強者の言いなりに租税を取られて窮乏な暮らしを強いられるなど、大衆の無明と煩悩を功利的に操る者だけが贅沢に生きられるという、空疎な構造を醸しているわけだが、人間は死ねば何てことはない。そんな人間の死を教えるのが元来仏教の訓えであるわけで、教義と智識を売り物にする僧侶や信者は得てして頑迷が多い。本当に立派な僧侶ならば、講釈ぶらずに、ただひたすら苦行を積んで、自分のことは愚僧としか言わないであろう。

さて、この論考『砂の城』では、魏収の『魏書釈老志』なくしては何も書けなかったわけだが、1990年に東洋文庫から塚本善隆訳注で出版されたのが大変な恩恵となっている。何せ当時は大東出版社の『塚本善隆著作集』全7巻が山口県内でどうしても入手できずに困っていたものだから、東洋文庫版で『魏書釈老志』が出版されるということがわかった時には、望外の喜びで小躍りしたほどだった。『塚本善隆著作集』が絶版になってしまっていたのか、本屋に頼んでもダメで、どこの図書館にもなく、大学教授の本棚リストにせいぜい1冊とか、古本屋でも探せなかったのである。今ならばインターネットで検索すれば、どこかに見つかるだろうが、1990年当時はどうにもならなかったのをよく憶えている。『魏書釈老志』を読み解くことで、古代中国の北魏仏教から日本の明治維新廃仏毀釈までがよく実感できるのだ。また、景明年間(500~504)の洛陽龍門の石窟が時空を超えたかのように生彩を放って歴史の真相がみえてくるのである。

(2005/03/11)





制作・著作 フルカワエレクトロン

TOP