『石仏論考』本編ホーム
石仏論考(続き)  山口県山陽小野田市有帆菩提寺山磨崖仏  最終メモ
日本に書き遺す石仏文化財資料・令和最後の記録
文・ 古川卓也
今後の課題と新たなプロジェクト
はじめに
「日本発見<石仏紀行>」第17号(暁教育図書 1980年)のこと
経過報告

追記 2014.07.30
1983年(昭和58年)当時の有帆菩提寺山磨崖仏の写真です。筆者が撮影したもので今回初めて全体写真を公開します。その後、不遜な拓本収集家によって1988年(昭和63年)に石仏の苔が無謀なやり方で安易に除去され、洗浄されて、拓本がとられてしまい、今では苔むした石仏の面影は微塵もありません。雨の日に苔むした石仏を拝むと、それはもう、えも言われぬ美しさをたたえていました。

有帆磨崖仏全体写真(1983年)


     今後の課題と新たなプロジェクト


        はじめに

「厚東」第48集 (厚東郷土史研究会)の総会も本年2006年12月9日に終り、その週の半ばにはこちら地元の新聞社「宇部日報」(宇部日報社)から突然の取材を受けることになって、12月7日付の「宇部日報」の一面半分下に大きな見出し「制作年代は天平期?」という有帆磨崖仏に関する私の『石仏論考』への記事が紙面に掲載され、わが郷土の愛する石仏文化財に触れて頂いて私はとても嬉しかった。平成18年も師走を迎え、今年一年を振り返ってみると、石仏にとっては、私がWeb上に公開した石仏写真や研究レポや考察以外これといって新たな進捗成果はなかったことになる。そんな進展のなかった一年がまた年越してゆくのかと思うと、こうしてまた人里離れた磨崖仏は風雪に耐えながら野晒し状態でこの冬を過ごしてゆくのがいつもながらにして不憫でならない。大分県臼杵市の石仏群が羨ましくてしようがない。臼杵市は臼杵市民あげて石仏の古里をとても大切に温かく守っている町なので、いかに国の重要文化財指定があるのとないのとで、こんなにも手厚く保存されるものかと羨望の的になるわけだが、それでも、山口県民の一人として私はこちらのこの自然石の花崗岩に彫られた有帆菩提寺山磨崖仏の一体だけで、臼杵石仏群にはない唯一無二の独自性を対等に高く評価したいのだ。臼杵石仏群の火山系凝灰岩(硬度2)のような彫りやすい石仏とは違って、花崗岩(硬度6)という石英結晶体を多く含んだ、まるで水晶(硬度7)や宝玉をちりばめたような硬い石質への巨大な半肉彫りのみならず、その聖観音菩薩立像の慈悲に満ち溢れたお顔の表情の気品さや美しさ、優しさは、石仏としては国内唯一無二の存在である。古代仏だけが漂わせる力強い品格さは、和様化して、日本独自にしてまさに世界無比と言ってもいいだろう。石仏文化を幅広く好きな人ならすぐに判断できることだ。

このままではおそらく来年もその次の年も、これまで通り地元で評価されることはないように思える。2年前に発足した山陽小野田市の石仏調査委員会から私へ見解を求める申し出もついになく、どうやら暗礁に乗り上げてしまいそうな雲行きで、いろんなところからその内情も聞えて来たりしている。誰も学術的に確証できず、説明がつかないところまで追い詰められてしまったのだろうか。「厚東」第48集では私の『石仏論考』が巻頭から展開されていたのだけれども、今回の総会では私の石仏研究に関して論議もなければ会話さえほとんど交わされず、厚東郷土史研究会が20年前から有帆磨崖仏を取り上げていたことの言及と、厚東郷土史研究会の手柄であるかのような説明がなされ、中原中也にまつわるゲスト講演と話題にほとんどが時間を費やされた。有帆磨崖仏研究会ではなく厚東郷土史研究会であるから仕方がないのだろう。結局、私の『石仏論考』は「厚東」第48集の総会において、気が付けば蚊帳の外となり、どうやらこれからの私の石仏研究の居場所はここではなさそうだ。20年前の当初から判ってはいたが、このヤドカリのような執筆活動もそろそろ場所替えの時期に来ているのだろう。石仏について心底から楽しく話したり本格的に研究できる場所に鞍替えする必要があると痛感してしまった。研究会の人材や資質の問題ではなく、石仏への無関心や情熱のない空気には、私にはあまり長くは耐えられそうにないだけのことである。だから今の私にはWebで公開してゆくしかないわけだが、今後は石仏文化財を熱心に真摯に取り上げてくれるところを探し、国内レベルで積極的に解明に賛同してくれるプロジェクトを構築してゆく予定である。石仏に関して、これまでWebには報告していない事柄がまだまだいろいろあるので、それらも順次まとめて紹介予定である。

(2006/12/11)


「日本発見<石仏紀行>」第17号(暁教育図書 1980年)のこと

有帆菩提寺山磨崖仏の本邦初公開のすばらしいカラー写真公開の書籍としては、昭和55年(1980)に出ている「日本発見<石仏紀行>」第17号(暁教育図書)が最も優れており推薦できる。この本の第17号の執筆内容としては、水上勉と久野健さんの対談集や、饗庭孝男、藤原審爾、堀多恵子さんらの随筆、奈良本辰也など錚々たる歴史学者の名前が連なる。1987年頃までの苔むして美しかった有帆の菩提寺山磨崖仏は、昭和63年の無謀な個人的趣味による拓本採集を機に、石仏は岩石の表面をこすられて洗浄され、すっかり変質してしまったわけだが、どうやら元の美しい姿に戻るには50年、いや100年以上待っても難しいのかもしれない。こういうことをされると、私はすぐに思い浮かべるのだ。1900年代初頭から日本が日韓併合だのといって韓国を植民地化し朝鮮総督府があった頃、慶州の石窟庵から日本人がひそかに略奪していった朝鮮半島の貴重な文物や文化財のことを考えてしまうのだ。

当時の石窟庵は屋根もなく廃虚と化していたわけだが、朝鮮文化の略奪を防ぐためとはいえ、初代朝鮮総督・寺内正毅が率いる日本陸軍の無謀な修復工事によって窟内が甦り始めていたものの、半肉彫りの石仏群像に囲まれた窟内の壁面は粗悪な漂白剤によって化学変化し白くなって、石仏は無惨な姿態をさらしてしまったのである。その当時の写真から見るとひどいものだった。そして、絶大なる日本軍の権力と地位を利用して、いつの間にやら山口に持ち帰った夥しい美術品と書籍巻物類等の朝鮮文物は、寺内正毅が山口に建てた朝鮮館(建築材そのものも韓国・景福宮内の建物にあったものでこれ自体がすでに略奪)に当時ひそかに収納されていたわけだが、時代を経て、山口市の地元の県立大学の一室(寺内文庫)に今も一部は保管されているかもしれない。韓国にそれらの朝鮮文物がまだ返却される前に、私はそれらを自分の眼で確認しようと思い、以前、大学に赴いたこともある。鍵のかかった一室が図書館の上の2階にあって、私は許可を得て部屋の中に入らせてもらったのだ。その時の記憶は今も鮮明に残っている。どこまでが日本の所蔵品で、どれが朝鮮文物や美術品なのか、ゆっくりと時間をかけて、一つ一つ見させてもらった。江戸時代のものから大日本古文書まで棚や引出しに整然とたくさん豊富に眠っていた。朝鮮王朝の巻物などは、蜜柑箱のようなダンボール箱に無造作に入れてあったのには驚いた。部屋の片隅にはパソコンがあって、図書リストを作成している途中のようだった。

ところで、有帆磨崖仏はもともと苔むしていて、雨の日に石仏を拝むと、それはもう言葉にならないほどあざやかに緑色に映えて美しく絶讃に値する姿となっていたのだ。硬質な花崗岩には植物による侵食はない。明治の廃仏棄釈にはこの聖観音菩薩立像の左側天衣の一部が狙われ破損を蒙り、昭和5年の偽証制作事件の時には本像の上から改刻を受難したわけで、若干の破仏もあるかもしれないが、石鑿で穿たれたとしても、花崗岩から火花が出た程度で大きな損傷は意外となかったとみられる。そして、昭和63年には信仰心のかけらもない石碑拓本マニアによって、付着していた苔類などが剥がれ、洗浄されて、石仏花崗岩質表面の、特にカリ長石の組成部分が白っぽく侵食を受け変色し損傷したわけだが、、ひどく冒涜された感じであり、石仏は汚辱を受けた形である。そんな経緯もあって、私は今年の4月に出版社の暁教育図書に、むかし昭和55年(1980)に出ている「日本発見<石仏紀行>」第17号に紹介された有帆菩提寺山磨崖仏の苔むした美しい写真を私のWebに公開したく、これを撮影した写真家に是非コンタクトを取りたく協力してほしい旨のメールを出していたのだが、当時の編集部は全員すでに退職しており、その当時の編集員や写真家の消息も不明で、手がかりが一切なく、現在は出版の規模を縮小し、学校向け教材だけの出版社であるから、編集部も新たに入れ代わっており、どうすることもできないし、何もお役に立てず誠に申し訳ありません、との返事をもらっていたのである。本当に今更ながら惜しいし、無念というよりほかない。当時の写真家の3人の名前は石川寛夫、田枝幹宏、中村昭夫となっており、その誰かが撮影したものと思われる。あるいは、出版社によれば、必ずしもそれらの写真家の内の誰かが撮影したものとはいえず、この本のためにカメラエージェンシーや博物館などから借用して掲載したものかもしれないとのことだった。出版社としては、私が今後も石仏に関する記録や研究の分野でますます活躍されるのを心よりお祈り申し上げます、という丁重なる文で締め括ってあった。さて、どうしたものか。

(2006/12/12)


経過報告

学術調査が出来ないような市発足の調査委員会は、正規の調査委員会とは呼べません。多額の支出金(800万円?)を調査予算に充てながら、2年前に結論を出すと決めて結局制作年代の結論が出せなかった未定終結宣言の報告書を今春まとめ、調査委員会解散の怪とは、一体何なのか。日本の考古学会や歴史学会ならびに文部科学省の埋蔵文化財行政機関を断ち切り、あるいは山口県教育委員会の文化財調査委の看過とは一体何だったのか。地元テレビのローカルニュースにも紹介し、郷土の市民・子供たち、そして県民の期待や古代史ロマンを弄んだ、この度の山陽小野田市磨崖仏調査委員会の失態と市予算無駄遣い及び浅学無責任は、実に野放図に終った。未解決のまま終結報告書を市が出すことになった、と電話連絡を受けて知ったのは先月3月下旬のことである。地元新聞「宇部日報」でも記事が載った。宇部日報Web版でも、石仏の拓本をひろげて調査委らが興味深げに覗き込んでいる写真の紹介と共に記事が公開されている。問題の拓本を見て、拓本のうまさに興じているようにもみえる。鬼の首でも取って来たような雰囲気だ。木を見て森を見ずの構図がうかがえる。

ふるさとの地味で小さな出来事かもしれないが、普通の庶民はこうした身近でささやかな夢やロマンを大事にして暮らしてもいるのだ。昨年の夏、山陽小野田市立中央図書館で一般の閲覧棚にあった花崗岩資料の貸し出し図書を私が借りようとしたら、あなたは宇部市民なので貸せません、と図書館長に断られたが、まあこの程度だから山陽小野田市行政の教養も知れている。誰がそんな規則を作ったのですかと館長に訊くと、市長だと事務的に答えていた。市長の権限は庶民よりも絶大である、と堂々と図書館内に聞えるほど段々声高に館長は述べていた。今は民主主義の時代だと思っていたが、ここは戦前の昭和に戻っていた。県内の図書館でこんな融通の利かない図書館も初めてだったが、石仏が悲劇となる所以をいかにも象徴している。有帆磨崖仏の研究をいくら説明しても、館長には猫に小判だった。いずれにせよ、今回の有帆磨崖仏に関する腰掛け的な調査委員会の、ていたらくな制作年代未解決終結宣言報告書と、現在も研究中の私の「石仏論考」とは何ら関係ないことだけは、ここに明言しておかねばならない。考古学や歴史学や遺跡文化財などを楽しみ学術的に学問する者と、下手の横好きの俄か仕立ての調査委員会との違いだけは表明しておかねばならぬ。

【補記: 花崗岩資料の図書は、山陽小野田市立中央図書館の隣りにある山陽小野田市立歴史資料館の職員と館長がこの本の貸し出しの話しを聞いて気の毒がられ、後日、歴史資料館が小野田図書館から借りて、私に貸し出してくれることになったのだった。この参考資料にさせて頂いた『花崗岩が語る地球の進化』(高橋正樹 1999年 岩波書店)は大変貴重な文献であり名著でもある。】

(2007/04/19)



追記 2014.07.30  私が歴史研究に活用している書籍資料は、宇部市立図書館で資料が見つからなかった場合、日本全国の図書館で所蔵検索が可能なかぎり、図書館同士が連携ネットワークを持っているので、宇部市立図書館の貸し出しカウンターに申し出れば、図書館ネットを通じて全国の図書館所蔵のデータを見つけ出してくれる。資料の取り寄せを依頼すれば、何日か後に宇部市立図書館から連絡がもらえるので、あとはそれを取りに行って通常の借り出し手続きをすればよい。そして、2週間以内に図書館へ再度行って丁重に返却する。むかし福岡や岡山の図書館からやって来た本などいろいろ資料を借りたことがある。山口県内のいろんな図書館にも足を運んで借りていたが、普通の一般図書を貸さず断られたのは山陽小野田市立中央図書館だけだった。昔は借りられたが、新館が出来てからは、妙に冷たくなってしまった。

小野田の歴史文化財を研究しているのに、宇部市民というだけで貸さないなんて、ちっぽけな料簡ではある。ついでに山陽小野田市立中央図書館の所蔵資料となる図書や文献を隈なく見させてもらったが、残念ながら大して何も揃ってはいなかった。その点、徳山図書館は対照的に素晴らしい書籍や資料が豊富に揃っていた。『寧楽遺文』や『平安遺文』や『鎌倉遺文』など全部揃っていた。宇部市民である私にも8冊2週間で貸し出してくれた。本当に昔はよく車で1時間かけて徳山図書館に通ったものである。2週間ごとによく行っていた。山口県立図書館では非貸し出し資料でも、徳山図書館ではそれらが借りられるというのは、何が違うのかと言えば、単に人間としての文化に対する教養の違いでしかない。歴史を研究するのに文献資料などの書籍類は不可欠である。研究して別に商売しようというわけでもないのに、単に地元の歴史発掘に貢献したいだけなのであるが、教養のない職員には大人の教育も必要である。税金を払っている庶民には、行政はもっと人間的にやさしくあらねばならぬ。郷土の文化を愛している者には、もっと心をひろげて愛情を注ぐべし。徳山図書館は心あるお手本だ。

(2014/07/30)


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