問題は左側天衣の破損を蒙った上下2箇所だ。右側のふっくらとした天衣に比べて、上破損部約30cmと下破損部約40cmの部分が、まるで横から金槌で叩いて割ったような形跡だ。古代に彫られた石仏全体のまろやかな彫り加減と風化の度合いの年数を目測で見ただけでも、その破損箇所は石仏制作完成時期から相当年数を経て、比較的新しいことが一目で判る。おそらく明治の廃仏毀釈の頃に受けた損傷かと思われる。
ところで、昭和6年に地元の禅僧が3年がかりでこの石仏を彫り上げて完成したとのことで、開眼供養もしたらしいのだが、この昭和制作説はすべて偽証と欺瞞であることが判明している。昭和制作説の矛盾点などを学術的に列挙しておく。
(1)石仏完成の昭和6年4月17日開眼供養当時、まことに奇怪な一枚の写真が残っており、石仏と石仏の右脇に立った制作主の禅僧本人が記念撮影されているわけだが、すでに石仏の左側の天衣が今と同じ破損の姿で写っているのだ。損傷部分が上下2箇所まったく同じ形跡であることと、聖観音像の頭部宝髻も左側の一部が今と同じように破損したままで写真に写っているのである。自然石である花崗岩の大岩から半肉彫り菩薩像を刳り貫いて、造り上げて、やっと見事に完成したから記念写真を撮ったはずなのに、写真はまことに無情にも真実を映し出すものである。なぜ、完成したはずのものが、最初から摩耗して何箇所も破損をしているのであろうか。まったく今と同じ破損部分をさらけ出しているのである。昭和初期に3年がかりの大作で制作完成したと言うのなら、制作主が何故こんな不完全なままで衆知に知らしめることになったのか。本当の石工ならば、ちゃんと仕上げて仕事をしたはずである。また、禅僧であるからには、石工となれる器量はない。仏像の石工は何代も続く職人芸の技であり、世俗を捨てた雲水や僧侶に出来るような石工の技は備わらない。木像とは根本的に違った石鑿を使う特殊な世界なのである。しかも花崗岩の石工となれば、極めて稀有な大陸的な技術を要する。昭和制作説に登場する制作者の禅僧は、古代の石仏を昭和初期に偶然発見しただけであることがわかる。自分が彫ったことにして、村の名誉にしたかったのであろう。昭和6年当時の村人たちはこの禅僧の欺瞞に気が付かず、禅僧を讃えるために稚拙な誤字だらけの奉讃文を書き、山の崖の大岩に彫られていた磨崖仏のすぐ下まで、仏像が目の前で拝めるように石垣の土台を急遽建設したのであろう。
これら詳しい証拠資料は『有帆磨崖仏と防長の古代豪族』(古川卓也 「厚東」第27集 厚東郷土史研究会 1985年)にすべて公開済み。
(2)昭和6年4月17日に行われた開眼供養は、いったい誰の供養で、もともとこの大掛かりな石仏はどのようにして彫られたのか不明であり(禅僧への奉讃文には「ノミを1回振るごとに三礼し、厳冬盛夏、一千有余日ついに遍照大救主聖観音の御尊像を拝刻、仰者つくづく讃嘆せざる者はなし」とある。鑿を1回振るごとに三礼しているようでは、百年経っても完成するわけがない。石工の大陸的技法の彫り様をまるで知らないし、石文化に携わる人間の働く姿や石材職人の仕事姿をまったく見たこともないようだ。この禅僧は浮世の汗水垂らして働く労苦を知らずしてウソの人生を生きていたのであろう)、石仏造立の動機もまったく不明である。この時の開眼供養に禅僧(昭和の制作者)が写った石仏との記念写真は、石仏の表情からも大きく離脱した境地のものといえよう。かなり世俗的な挙措ともいえる。この禅僧の名前は前記の資料にも公開してあるが、名前自体もかなり俗悪である。村田宝舟というが、本物の修業の身の禅僧であるならば、宝の舟などと、禅の世界では最も敬遠しなければならぬ名で、法諱に恥じぬとも思わなかったのだろうか。七福神をのせた宝船は商売繁盛の置物、とても得度の身には見えず還俗して石仏を商売にでもしたかったような、謙譲の無い名といえる。このような矛盾の多い昭和制作説の空疎な論争はやめて、奈良時代後期にこのすぐれた聖観音菩薩立像の石仏を造立しなければならなかった本当の発願主は誰であったのか、誰のための供養であったのか、またどのような歴史背景であったのか、そこを私は知りたいだけで、石仏制作に本当に携わった古代の仏師や石工たちの多くの人々が蠢く様子に、私は地理的にも歴史のロマンを強く感じるだけなのである。
(2006/06/28)
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