花崗岩の石仏制作は白鳳時代と奈良時代に見られるものの、一旦、時を隔てて、宋の渡来系石工の伊行末から派生し始める鎌倉時代まで待たねばならない。鎌倉時代以降に再び保存性のよい花崗岩の石仏が注目を浴びて各地に造像されるようになる。石質として丸彫りなどの彫りやすいのは、軟質な凝灰岩や砂岩ということになり、九州の臼杵石仏群や熊野磨崖仏などはその一例である。軟質だと岩窟や天蓋などで守らなければ石仏が崩れやすい弱点もある。ただ、石仏にも彫り方があって、線刻仏であれば花崗岩であっても比較的彫りやすかったのではなかろうか。しかも、かなり繊細なところまで表現できたであろう。京都の笠置寺虚空蔵石線刻磨崖仏などは、その代表例といえる。花崗岩にして平安後期のものとされ、高さは12m余りの線刻巨像だ。写真で見る限り、その格調ある流麗な菩薩像には圧巻がありそうだ。
また、奈良の大野寺弥勒磨崖仏も巨大な線刻で、岩の表面を光背形に彫って平らにしてから線刻仏として描いてある。高さ14mというのも迫力がありそうだ。鎌倉時代前期のものだそうで、承元元年(1207)に後鳥羽上皇の発願により、法務大僧正雅縁が棟梁となって3年かけて造営されたとのこと。承元3年(1209)3月7日に開眼供養されている。鎌倉前期であっても自然石に浮彫りする技術は、当時としてはまだ難しかったのであろう。伊行末一派らの石工技術が広く敷衍してゆくには、もう少し時がかかったようである。京都の石像寺阿弥陀三尊像も花崗岩のようだが、そんな中で鎌倉前期の花崗岩にして丸彫り石仏としては実に異例であり、その秀逸にして端整な姿は重文としての風格も鮮やかだ。滋賀の藤尾阿弥陀三尊像も花崗岩で、鎌倉前期の延応2年(1240)に造像供養がされたという刻銘があるのは実にすばらしい。
日本では刻銘がある磨崖仏は鎌倉時代以降となるようだ。武将の仏心が戦で幽明境を異にするたびごとに、何か不安のなかで確証とする心の拠りどころとして、石仏の造像にも信仰の理由が欲しかったのであろうか。それを仏師に託して、供養しなければ鎮まらない胸の内が重くあったのであろう。さて、そうすると、奈良時代のものとして、花崗岩として今日まで大体の姿として残っているのであれば、その様式もかなり格調が高いものとして生き残る力があったということだろう。白鳳時代最古とされる奈良の石位寺三尊石仏(重文)は、堂宇に守られ、唇に紅が僅かに残るほど確かに完璧な姿である。素朴にして端麗な1300年間永続の迫力に満ち溢れている。そして、滋賀の狛坂廃寺磨崖仏も奈良時代後期のものとして、花崗岩に彫られている様式は、他とは一味違う、ふくよかな明るい表情の半肉彫り三尊像ではあるけれども、いつ石仏と対面しても永きに渡って人の心を和ませる力があったのであろう。では、同じ花崗岩にかくも流麗に彫られた有帆菩提寺山磨崖仏の、童顔風の慈悲に漲った聖観音菩薩立像の造像の経緯は、果たしてどういった由来のものであったのだろうか。その完璧にもちかい容姿と古代様式の現実は、石仏自身がありのままに真実をさらけ出している以外の何ものでもあるまい。滅びにくい花崗岩の石質を知った上で、発願主がそれを望み、仏師と石工にすべてを託した歴史的背景がなければ、ここまで完璧に造立へは至らなかったはずなのである。
(2006/07/07)
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