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海の上のピアニスト
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この映画について語るには、多くの日数をかけても語り尽くせないかもしれない。しかし、出来るだけ書き留めて置かなければ、きっと自分の人生に悔いが残りそうである。こういう映画に出会えたことで、また自分の人生にも至福を頂いたと思っている。言葉の物語から、それをダイナミックに、ここまで映像化できるようになった今日の映画製作には、実に眼を見張るものがある。それでいて、けっしてイタリア映画らしい真骨頂を忘れさせないイタリア映画界の若き名匠、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の手腕はただ者ではない。どこがアメリカとの合作映画なのかよく判らないが、自由の女神やその背後に映ったニューヨーク摩天楼の風景撮影がなされたことと、そこでの波止場や港町のロケ地が加わった程度だとしても、この映画全体を包んで色濃く流れているものは、やはり紛れもなくイタリア映画の本流であり、その一方で実に国際色豊かなスケール感があるのは、そのこととは越えて、いかにも20世紀を代表する映画として、また名作として今後も君臨する作品であることには違いないだろう。実にすぐれた感動巨編である。


ダニー・ブードマン

ビル・ナン(Bill Nun)が演じる黒人機関士ダニー・ブードマン、その人間味あふれた登場人物に先ず惹かれたのだった。1900年、ヨーロッパから多くの移民たちを乗せ、あるいは船旅の富豪たちを乗せる豪華客船「ヴァージニアン号」、港に着いた時にダニー・ブードマンは、誰もいなくなった一等船客用のダンスホールで、金持ち達が何かお金になりそうな物をホールの床に落としていないかと四つん這いになって現われるシーンがある。彼いわく「ちぇっ、金持ち達はゴミばかり落として、金目のものは一つも落としちゃーいねえ」と。文句を言いながら、そのダンスホールのピアノの脚まで四つん這いで床の上を探すダニー、そして、ピアノのどこからともなく聞こえて来た泣き声から、すっくと立ってピアノの上を見ると、小さな木箱がピアノの上に置いてあった。そろりと中を覗くと、可愛らしい赤ん坊が何と置き去りにしてあったのだった。木箱にはT.D.レモンと書いてあり、それがレモンの詰まっていた木箱だと判る。この子はきっと神様が自分に授けてくれたのだと、ダニーは歓喜する。

ダニーは船内の機関室で、その捨て児の命名を仲間達に呼び掛け、結局自らがその児に「ダニー・ブードマン・T.D.レモン・ナインティーン・ハンドレッド」と名付けたのだった。年月が経ち、豪華客船の船底で隠れて育てられてゆくナインティーン・ハンドレッドは、あたたかいダニーの愛情ですくすくと育ってゆく。船は大きな揺りかごそのものだった。やがて8歳になったナインティーン・ハンドレッドは、突然の悲しみに襲われることになる。我が子同然のように育ててくれた養父ダニー・ブードマンの事故死だ。天涯孤独の身になってしまったナインティーン・ハンドレッドは、それまで見たこともない豪華な廊下やダンスホールからの音楽に興味をそそる。ガラス越しに見える美しい衣裳の人達、そこから音楽との出会いが始まるのだった。華麗なる演奏のピアノの音色や楽団の演奏に耳を傾ける少年、ナインティーン・ハンドレッドの奇蹟の旋律が次第に目覚めてゆくことになる。美しいピアノのメロディを即興で弾く少年の演奏表現には、かつてないほどの繊細な豊かさに溢れていた。亡き父の溢れた愛情表現そのままだった。ある時は明るく軽妙に、物悲しい時はセンチメンタルに、激しく強く時に優しく、まさに大海原そのものの躍動でもあった。

(2000/08/31)

映画が映画を越える時

もし、この映画を観て、あなたが「素直に感動できなかった」としたら、それは自分の人生に危険信号が灯っているのである。つまり不感症症候群に陥っているとみていいだろう。若い方ならば、物事に感応できなくなったデジタル人間のようなものだ。ある程度の年配の方であるならば、もはや取り返しのつかない感性喪失型の物質主義者だ。いずれにせよ、いま自分が「生きている!」という生活充実感のない、さして夢もない空虚な日々を過ごしている人達に違いない。なぜなら、感動の度合はその人自らの共感の度合を反映しているわけで、感受性のバロメーターにすぎないからだ。自らの感受性の貧しさを映画のせいにしても仕方がない。

映画をより楽しく鑑賞するには、映画の見方を学ぶともっと物事が見えて来る。人には眼がいくつかある。直接表面を観察できる二つの視力を持った眼と、心でよみとる心理の眼、体験による現場を知る眼と、現実を見たことはないが想像力の眼、人間の叡智から学んだ教養の眼と、学問的に見える眼、人の痛みがわかる人格的な眼や、業績と栄光を掴んだ経験者だけが見える眼、そしていつも社会の底辺で蔑みを受けながらも一生懸命に働いている人達の哀しいけれどユーモラスに満ちた人生の讃歌を歌える美しい眼差しを持った慈悲深い眼と、実にさまざまな眼の持ち主がいるということである。それらの眼をいくつもたくさん持っている人ほど、いろんなものが豊富に見えて来るのだ。逆にそれらの眼が少なければ少ないほど、世間を見る了見が狭いということになる。映画の鑑賞力とは、そういうことであろう。

かりに伝説のピアニストの物語だとしても、この『海の上のピアニスト』をここまでリアルに描いた映画製作の情熱は、大変なものである。映画の醍醐味とは、映画が映画を越えた時、その物語の中に自分の感情が差し迫り、肉薄している時である。この映画はそういう映画である。

(2000/09/04)
文・古川卓也

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