2000年
- 9月26日(火) 『ヒマラヤ杉に降る雪』(SNOW FALLING ON CEDARS)(1999米 127分)
監督・脚本:スコット・ヒックス 原作:デビッド・グターソン 主演:イーサン・ホーク、工藤夕貴
日記
- 8月31日(木) 『海の上のピアニスト』(『THE LEGEND OF 1900』)(1999伊・米 125分) … 主演はティム・ロス。監督・脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ 原作:アレッサンドロ・バリッコ(白水社刊)、撮影:ラヨシュ・コルタイ、音楽:エンニオ・モリコーネ(サントラ盤:ソニー・クラシカル)。1999年
イタリア・シルヴァー・リボン賞 ”最優秀作品賞” ほか6部門受賞。1999年 ダヴィッド・デ・ドナテッロ(イタリア・アカデミー)賞5部門受賞。第12回東京国際映画祭・特別招待作品。
日記
- 8月 7日(月) 『エンド・オブ・デイズ』(1999米 122分) … 主演はアーノルド・シュワルツェネッガーことシュワちゃん。心臓の手術をしたとかで、大病後のシュワちゃんの容態は一体どうなったんだろうと気にかけながらこの映画をビデオで観ていると、「うわっ、こりゃまた心臓に悪いアクションをしているじゃないか」と映画よりも演技が心配になったが、相変わらずの筋肉を見て、さすが本物の大スターは身体の管理が万全だと思った。俳優のエライところは、身体が資本であるということを最もわきまえていることだろう。このことは日本でも海外でも一緒のはずである。本物の歌手が常にボイストレーニングをしているように、本物の俳優も常に体力作りが基本のはずである。シュワちゃんの肉体でなければ出来ないことを、ごく当たり前のようにスタントするところが、やっぱり世界を代表する俳優の最もエライところだ。日本人でシュワちゃんと同じことが出来る俳優が果たしているのだろうかと見渡したとき、残念ながら誰一人思い浮かばないのである。日本映画のなかで特にアクション派スターがいれば、彼らこそこれからの日本映画の屋台骨になるのではないかとわたしは考えている。身体を資本として常に体力作りに励んでいる俳優は、すべてのいかなる脚本にも対応できるはずである。アクション映画ではないから身体を鍛えていないという俳優がいたら、その出発点からすでにダメな俳優である。なぜなら、人間性を表現しようとすれば、静であれ動であれ、体力が必要だからである。体力とは「生きる」ことの愛であり、糧である。人を愛するにも強い身体がないと、危急の際には救えないからである。
さて『エンド・オブ・デイズ』であるが、ミレニアムという1000年単位での宗教上に巻き起こる世紀末での闇の魔王サタン(ガブリエル・バーン)と、要人警護スペシャリストのジェリコ(シュワちゃん)との壮絶な闘いが展開されてゆくわけだけど、地下鉄内の電車暴走・激突シーンや、教会の下から現われる巨大蝙蝠のコワーイ顔つきをしたサタンとの死闘など、いかにも世紀末を表現した残忍な光景と絡めた、ずいぶんマイナーの暗~い、おぞましい戦慄のスペクタクル映画ではある。ああ、われらのヒーロー、シュワちゃんが最後に串差しとなってクリスティーンの身を守る結末は、やっぱりどこかさびしい気がする。ヒーローは絶対に死んでほしくないと思うのは、わたしだけの思いなのか。映画上のこととはいえ、俳優は何回死んでも復活するが、世紀末を越えた21世紀では、やはりヒーローは不滅のままであってほしい。シュワちゃんの次なる作品は、一体いつお披露目してくれるのだろうか。映画って本当に役者次第だなあって、この頃いつも実感しています。
- 6月22日(木) 『シックス・センス』(1999米 107分) … 主演はブルース・ウィリス、というよりはむしろ子役のハーレイ・ジョエル・オスメントかもしれない。この映画を解説するにしても分析するにしても、ちょっと難しいかもしれないと思ったので、あえて書くことにした。わたしの見方はこうだ。アメリカ映画もそろそろ映画という枠に限界が来たのではないかとみている。わざわざ映画にしなくてもいいものを、映画で表現しようとするところに土台無理がある。ホラーまがいのようでヒューマニティを追い、視覚効果や緊迫感で人間病理学や精神科医の心理学を駆使しようとして精神分析風にドラマが展開されるが、あえて言うなら、その主題に対して初めから非科学的である。この世に幽霊というものは、そもそも存在しない。物理的にも数学的にも化学的にも、心霊的な形而上学的考察にしてもあり得ない。死んでいった者たちの怨霊があると思うのは、現世に生きている人達の不安心理から生じる阿頼耶識(あらやしき)の現象にすぎない。これを通常、仏教の世界では煩悩という。この煩悩を誇張して観客を怯えさせる手法を、ホラー映画という。もっと哲学の基本を勉強すれば、こういう霊界劇も少しは進歩してゆくだろう。その点、日本の中世の世阿弥の能などは、すでに室町時代に能舞台で霊界を現出させ確立した文化なので、こちらの方が遥かに世界的にも高度といえる。また同じ怨霊の姿でも能の方がずいぶんあでやかであり、美と鬼気迫る対立が面(おもて)一つで具現されるので、実に品格がある。日本の能はむしろ外国人にとっても、大変憧れるものとして人気が高いのを忘れてはなるまい。
さて映画に戻るが、この頃の例えばニコラス・ケイジとメグ・ライアン共演の『シティ・オブ・エンジェル』、ブラッド・ピットとエドワード・ノートンの『ファイト・クラブ』、やや古い90年映画パトリック・スウェイジとデミ・ムーア共演の『ゴースト ニューヨークの幻』などなど、これら一連の幽霊ものは、やはり映画手法としてはそろそろ限界、マンネリとも思えるから、映画はやはりホラーはホラー、SFはSF、ラブ・ストーリーはラブ・ストーリー、ヒューマニティはヒューマニティとして、この際、わりきって表現した方が観客側にとってもわかりやすいし、妙にこじつけた心理描写は、やはり映画の限界というか壁ではないかと思える。『シックス・センス』については、別にブルース・ウィルスがああいう大人しい役をしてもおかしくはないし、また何でもこなせるのが名優というものである。多感な子供の繊細な感受性を理解し得ない大人たちを強調しても仕方がないし、子供の心理を理解するよりも、子供を自分がいったい普段からどれほど本当に愛しているのか、愛するということがどういうことなのか、ただ抱きしめるだけではダメで、いかに理解し導いてやるか、愛はそんなに簡単なものではないのだ。それはちょうど、太陽と向日葵(ひまわり)のような関係かもしれない。光を暖かく降り注がないと、けっして向日葵は大きくならないだろう。
- 6月 5日(月) 『フランダースの犬』(1998米 96分) … 題名こそは有名すぎて知っていたが、あらためてストーリーはと言えば、何か子供向けのアニメだったようだからそれなりの物語なのだろうという風に内容すら想像もせず高を括っていて、実際は何も知らなかった。原作はイギリスの女流作家ウィーダ(1839~1908)、1872年にイギリスで刊行された小説。ウィーダ存命中にはさほど顧みられることもなく陽の目を見なかったような作品。ご当地の舞台となったベルギー国においても、発刊100年後位までその小説の舞台フランダースにおける物語は皆目気が付かなかったような、あるいは所詮小説なので、だいそれた史実として受け止めていたわけでもないだろうし、時代的背景としては貧しかった庶民が、その大人しくて利口で体格のいいフランダース犬を、日常慣習的に荷車の牽引に使っていたとして、さして特異なことではなかったろうから、あらためてそんなストーリーがあったのかと気が付く程度であったかも知れない。近年、小説の舞台は観光のネタにも使えるので、主人公のネロとその毛深い独特の表情を持ったフランダース犬のパトラッシュが、1985年やっと知名度を得てホーボーケンの町の銅像となり観光名所となりはしたが、それがけっして作品の陽の目を見ることではないだろうけれども、19世紀後半のベルギー・アントワープ郊外のフランダース地方にこういう物語がウィーダによって生まれたことには、やはり大いに価値があるだろう。
興味深いのは、この映画を観て、この作品の構成がドストエフスキー(1821~1881)の短編 『キリストの降誕祭に召されし少年』 (「作家の日記」内にある)の結末によく似ていることである。おそらくこの手法はドストエフスキーから学んだものかも知れない。あるいはロシア正教や同じようなローマ・カトリック教などのキリスト宗派にウィーダも信奉していたのだろう。高さ123mの大ゴシック建築ノートルダム大聖堂の祭壇画として描かれたルーベンス(1577~1640)の「キリストの降架」や「聖母マリアの被昇天」は、ドストエフスキーにとってもウィーダにとっても、きっと憧れていた異国の有名な大聖堂であり一度は見たかった絵画ではなかったろうか。
さて、この作品 『フランダースの犬』 は、これまで国内ではTVアニメなどになって有名で、他にも映画化されているようだが、98年のケビン・ブロディ監督作品に関しては、とてもいい作品なので、レンタルビデオ(ASVX-1655 アミューズソフト)がもう少し並んでいてもいいのではないかと思うが、レンタル開始時に国内でどれだけ人気を博していたかは判らないにしても、こういう作品は 『もののけ姫』 のような作品とは根底が違うので、現代の日本の子供たちの関心度には少々気にかかるところではある。『フランダースの犬』 には、子供たちが学ぶべきものがたくさんあるのに対して、『もののけ姫』 には 『フランダースの犬』 の中で学べるものが何一つ備わっていないのは、ちょっと格差があり過ぎて悲しい。日本のアニメ映画は確かに面白い。しかし、環境破壊への警鐘を鳴らして、いろんな闘いを繰り返したり、面白い・可愛いだけでは、徳を教えることにはならない。人間の情や慈悲という徳を教えないから、平気で人間を殺傷する世の中となる。これを「殺伐とした世の中」と言うが、人間から情や慈悲を失くしてしまうと何が残るかといえば、憎しみと闘争しかないのである。殺られたら、いつかその殺った人間も殺られるのである。愛の本質は、恋愛にはなく、人間愛にある。だから、少年ネロは傷ついたパトラッシュに手を差し伸べることができ、また犬のパトラッシュもネロの昇天まで傍に寄り添っていることができる。その人間愛をネロの祖父は死ぬまで、ネロに行動で教え導いているのである。
- 5月 8日(月) 『タイタニック』(1997米 189分) … 主演はレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレット。製作:ジェームズ・キャメロン、ジョン・ランドー。監督/脚本:ジェームズ・キャメロン。音楽:ジェームズ・ホーナー。アカデミー作品賞・監督賞・撮影賞・音楽賞・美術賞など受賞。
- 4月22日(土) 『スター・ウォーズ エピソード1/ ファントム・メナス』(1999米 133分) … 主演は誰だか分からない。製作総指揮・監督・脚本はジョージ・ルーカス。ルーカスワールドこそが主演と呼ぶにふさわしい。ジョージ・ルーカスについて、いまさら多くを語るものは何もない。多言無用である。この「スター・ウォーズ」シリーズで16年振りにまったく新作となった「エピソード1」だが、そのこと自体にもちょっと驚く。それも監督を務めたのも22年振りというから、これも意外な気がする。それにしてもジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグといった監督を初めとして、こういうSF映画を生み出してゆくアメリカは、やはり凄い。CG技術がいくら発達して来たとはいえ、その前程にこういう夢や冒険ロマンという壮大な心がなければ、何も生まれやしないのだ。その壮大な夢をリアルに紡いでゆくアメリカ国民と、わたしたち日本人の場合の夢や冒険心とを比較するのは、けっしておこがましくもないと思う。
映画製作費の問題ではなく、人間的スケールの相違であって、根本的に人間の器から今の日本人はアメリカ国民の夢に負けてしまっているのだ。夢の大きさとは、こころの豊かさでもある。銃社会のアメリカの現実は、そうでない日本の現実よりももっと厳しく苛酷かもしれない。現実が酷い分だけ、夢はそういう反発から生まれて来るのに対して、甘ったるい現実からはせいぜい頽廃的なものしか生まれて来ないかもしれない。今の日本映画に最も欠けているものは、すぐれた多くの俳優やスタッフを生かしきれていない、選ばれた原作・脚本の貧しさにある。世界に通じる夢や冒険ロマンを抱いていないことと、テーマのこだわりがあまりにも狭隘すぎる。飽食と価値観の喪失から来る、だらけた精神の不毛からは、傑作や名作はけっして生まれて来ないのである。大人も子供も金がすべてだと思っている社会が続くかぎり、この国からは壮大な夢や冒険ロマンに満ちた感動巨編は、けっして生まれることはないだろう。まして「あなたの値段を鑑定します」というような人気ゲームに惑わされて金額を気にしているような暇があったら、自分の命に時間切れがあることを学んだ方がいいだろう。
- 4月 9日(日) 『レジェンド・オブ・フォール』(1994米 132分) … 主演はブラッド・ピット。人にはそれぞれ限られた時間が与えられているように、たった一度の人生で、いったいどれほどの映画が観られようか。手当たり次第に数多く観るより、できれば「いい映画だった」と言えるような映画と多く出会いたいものだ。その映画を観ながら、素直に涙があふれる人は、その人自身が心やさしい人なのだ。映画を観て批評ができる人は、その人が自分の価値観に自信がある人なのだろう。そしてその映画に採点まで付ける人は、その人が持っている価値観には点数でしか評価できない理論家なのだろう。馬に乗ったこともなければ、戦争で殺戮したこともない未経験者であろう。映画スクリーンの中のような行動も、まして演技もできない人に、映画を語るなら、それだけの人生経験を積んでからしゃべったほうが賢明かもしれない。人生の醍醐味は、数字で割り切れないところに喜びも悲哀もあるのだ。
映画 『LEGENDS OF THE FALL』 では、第一次世界大戦を挟んで、その頃のアメリカを舞台に大自然に生きる人間ドラマが展開される。その大自然の美しさやパノラマ風景を見事に撮影しきっているカメラマンもすばらしい。94年のアカデミー賞で撮影賞を受賞している。物語は男兄弟3人と父親であるラドロー大佐(アンソニー・ホプキンス)を取り巻くヒューマニティーだ。戦地へ赴いた3人兄弟がそれぞれに、戦争が与える残酷さによって、人間が変わってしまう描写を次男トリスタン役のブラッド・ピットが演じる。俳優が俳優を越えた仕事をしている、いい好例だ。ブラッド・ピットは世界中の女性ファンが慕って思っている以上に、すばらしい仕事をする、自分に理想や夢を抱いて演技する俳優であろう。インディアンの虐殺という罪を犯したラドロー大佐の悔悛と、そのインディアンの一族と共生し、ワン・スタップ(ゴードン・トゥートゥーシス)一家との心のふれあいをも描きながら、戦死してしまった三男のサミュエル(ヘンリー・トーマス)をめぐって国家とは何か政府とは何か、そのサミュエルの恋人だったスザンナ(ジュリア・オーモンド)との愛の絡みも交えながら、トリスタンは長男アルフレッド(アイダン・クイン)との確執にもいがみ合いながら、スザンナを置き去りにしてまた破天荒な長旅へと発ってしまう。まだ子供だったはずの混血のイザベル2との再会、そしてやっと辿り着いたかに見えたイザベル2との結婚、なかなか思い通りにならないのを運命と呼ぶなら、また人生も映画のような一齣かもしれない。そしてこの映画には、97年映画 『タイタニック』でもお馴染みのジェームズ・ホーナーの雄大で美しい音楽がすみずみまで行き渡っているのは、何とも嬉しい。
- 3月26日(日) 『ライフ・イズ・ビューティフル』(1998伊 117分) … 監督・脚本・主演はロベルト・ベニーニ。この作品は、1998年カンヌ国際映画祭審査員グランプリ受賞、1999年アカデミー賞主演男優賞・外国語映画賞・作曲賞を受賞している。いい映画だと思う。しかしながら、第二次世界大戦にあまりに過度なパロディを入れると、いくらユーモアに富んで明るく描こうとも非現実的な表現が露呈し過ぎて軽くみえるから、ちょっと惜しいような気がする。品の悪さと庶民感覚を同一視しているのもよろしくない。映画は芸術であって芸術ではない面もあるから、特にユダヤ人虐殺の強制収容所を取り上げるときは、実際に虐殺されていった数百万人の慰霊にはなりにくいので、あまり安易で軽妙なパロディはもう少し控え目であったほうが得策だったかもしれない。原因はロベルト・ベニーニ自ら監督・脚本したことで、かえってそれが災いしてみえる。本当の人間の残酷さや歴史の苛酷さを体験すれば、こういう映画は作れないであろう。だが、若くても果敢に挑戦して、このような映画作りをしてゆくのは、やはりすばらしいことだ。イタリア映画の名作中の名作『道』などの伝統があるだけに、時代色を出すなら数々のイタリア映画の不朽の名作と共に肩を並べて欲しいものだ。息子にこれはゲームだと偽りながら、必死で子供の身を守ろうとしている父親の気持ちはよくわかるが、強制収容所の中ではほとんど非現実的におもえるのだが、父親グイド(ロベルト・ベニーニ)が最後に、近くに隠れている息子に向かって、射殺されるのを覚悟しながらも息子を笑かせながら去って行くところは、たとえそれがパロディに映っていたとしても、やはり胸に詰まるものがあるのは、この作品の不動の勝利を裏付けるものである。子供が父親の死も知らずに、最後の場面で戦車に乗りたがっているのも戦時下としてわかるし、間もなく戦車から母親を見つけて戦車から飛び降りてゆくのもよく締め括られている。
- 3月25日(土) 『ユー・ガット・メール』(1999米 119分) … 主演はトム・ハンクスとメグ・ライアン。ニューヨークの、とある街角で巻き起こる、進出して来たばかりの大型チェーン店の書店と絵本を扱ってきた老舗の小さな本屋との、初めから勝ち目のない奮闘記をさらりとホットに描くが、この社会状況は日本でも切実であり深刻でもある。それを明るく切り抜けるために、本心をのみ電子メールで語っていた小さな本屋のキャスリーン(メグ・ライアン)が、実はそのメル友がライバル店の二代目オーナー、ジョー(トム・ハンクス)だった、というストーリー。現代の社会的な時代の流れを再現する一方で、こんなにもピュアなラブ・ロマンスを演技できるトム・ハンクスとメグ・ライアンはさすがにすばらしい。映画は監督や原作・脚本以上に、いかに俳優次第であるかがこの1本。実に心温まる作品だった。
- 3月 7日(火) 『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ』(1999英 128分) … 主演はピアース・ブロスナン。日本で真似ることができないイギリス映画007シリーズ。度肝を抜く迫力・緊迫・スケール・アクションは相変わらずの絶品、世界No.1と言ってもいい。最早アメリカのハリウッド映画と双璧をなすシリーズものだ。ただ、誠に惜しまれるのは、この作品が公開された直後、007シリーズでお馴染みの”Q”ことデズモンド・リューウェリンが12月19日に交通事故で急逝してしまったことだ。映画で当たり前のように登場して007用の新しい秘密兵器を毎回楽しませてくれていたあの顔が、この007第19作目の作品限りとなってしまったことはとても残念でならない。大ベテランの俳優を失うことは、日本であれ世界であれ、国境を越えて寂しいものである。さて、この映画のみどころは、いきなりの高い建物からの飛び降りに始まり、Qじいさん(ブースロイド少佐)が開発試作中のジェットボートで繰り広げる派手な追跡劇、雪山での珍しいパラホークというらしい空の乗物からの攻撃、また巨大なチェーンソーの攻撃ヘリ、パイプラインの中を凄い高速で走行してゆく場面、そして数々のアクションが展開されてゆくなかで欠かせないのが、二人の美人女優の登場。派手な中にも華麗さ美しさをけっして忘れないのが、いかにも英国らしい映画として作られている。フランスの国際派女優ソフィー・マルソーの表情は、あまりにも蠱惑的で男を惹きつける魅力があふれすぎてたまらない。一方、その分まだ若いデニース・リチャーズがボンドのお相手役とはいえ、瞳の美しさと体力をアピールしたわりに存在感が薄くなってしまったのは皮肉。悪役のロバート・カーライルが昨年99年にイギリス映画界への貢献を認められて、エリザベス女王から大英帝国勲章(OBE)を授与されたのも何とも面白い。
- 2月13日(日) 『エントラップメント』(1999米 113分) … 主演はショーン・コネリー。注目すべきは黒髪の美女、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ。高級美術品ばかりを狙う華麗なる強盗の娯楽アクションだが、共犯のお相手が美人のキャサリン。こういう女優が本当の意味で女性としての肉体派アクション・スターというもの。ふだんから鍛えていないと、ああいうしなやかなボディラインも妖艶さも表現できるものではない。日本の女優にももっと体が資本であり基本であることも学んでほしいと思う。女性の色香をうわべや化粧だけに頼っている日本のドラマ作りには、根本的に楽を求めて制作されがちなので、ある意味では日本の女優の可能性を押し潰しているようなもの。女性はどこの国でも男が考えている以上に逞しいものなのだ。『エントラップメント』では、プゥードー駅でマック(コネリー)を待つジン(ゼタ・ジョーンズ)の不安な顔の表情がとても美しかった。年齢差を越えた男女の愛が粋でオシャレで素敵だった。愛はいつもこういう風に描きたいものである。
|