『トイ・ストーリー4』 (2019年 米)
人間の前では絶対に動き出すことのない「おもちゃ」たち、だが、部屋から人が去ってしまったら、あるいは人目につかない状態になってしまえば、オモチャたちは一斉に動き出すというファンタジー映画『トイ・ストーリー』シリーズは、今回で第4幕を迎えて世界中にお披露目されたわけだけれども、今回ほど感慨深い作品に出会えたのはとても幸せというほかない。前回の『トイ・ストーリー3』はあまりの面白さに、ついブルーレイ3Dを購入したが、今回の『トイ・ストーリー4』はレンタルで観ただけでは終わらず、やはり永遠に所有していたい衝動からブルーレイ2Dを購入した。映像の魅力以上に胸を打つものだったからである。
確かに、人間の子供が愛用していた玩具も人形も、それに飽きてしまったら、オモチャたちはいつしかお払い箱となり、ダンボール箱の中か押し入れの隅に追いやられるのがオチではある。あるいは二束三文でリサイクルショップに売られてしまうのが運命だ。オモチャは所詮オモチャであり、人間のほうも次第に成長してゆくわけで、幼児から子供へと育ち、子供は小学生、中学生、高校生(中には中学卒業からの就職)、やがては大学生(中には高卒からの就職や専門学校などへの進路)といった社会人か大人になってゆくわけだから、いずれ愛玩していたオモチャの品々は、人間の成長と共に忘却の彼方へと思い出の記憶さえもが掻き消えてまう。
そんなオモチャたち側からの視点で描いてゆくディズニー映画『トイ・ストーリー』は、本当にすばらしい映画作品となっている。そして今回の『トイ・ストーリー4』には、最も簡素な発想で生まれたゴミのキャラクターにわたしは深く心を奪われてしまった。人間ボニーは5歳の女の子で、物語の分別などもちろん備わってはいない。人間アンディからカーボーイおもちゃ人形のウッディら玩具を譲り受けた幼稚園児ボニーは、内気な性格のため園児らとなかなか馴染めず、ある日のこと、幼稚園での工作時間に、ゴミ箱に捨てられていたものを使って、特別なものでもない、実にへんてこりんな物を作ったのだった。顔となるプラスチックの先割れスプーンと、赤いカラーモール針金で作ったヘナヘナの両手、足には食べ終えたばかりの捨てられたアイスクリームの木の板を使い、両眼には左右大きさの違うコロコロ目ん玉が先割れスプーンの裏側に付けられ、スプーンの体とガニ股の足は粘土でくっ付けた、何ともお粗末なふにゃふにゃ人形だった。だが、そんなものにも名前がつけられ、フォーキー(Forky)と呼ばれるようになる。ボニーに作られたフォーキーは、ゴミの習性であるかのように、すぐにゴミ箱に戻ろうとする。まさに新しいキャラクターの誕生だった。
この新たなキャラクターの発想が今回の『トイ・ストーリー4』では影の主役となっていて、何とも愉快で心理を突いていてとても感心させられた。フォーキーは自らをゴミと思っているので、けっしてボニーの手作りおもちゃだとは思っておらず、今はボニーが持ち主となった主人公のウッディは、何とかフォーキーをなだめては、自らがボニーの大切なおもちゃであることを涙ぐましいまでに何度も説得するが、なかなか思い通りとはならない。おもちゃは人間のためにあり、人間の手によって作られ、生まれているから、おもちゃの立場を考えるよりも、おもちゃにはおもちゃ同士の通じる世界もあることをウッディはフォーキーに伝えようとするのだが、物語の展開は観ていて最後までハラハラドキドキの連続となってしまう。
ところで、ゴミ扱いをしないウッディの思い遣りは通じて、だんだんボニーのおもちゃらしくなってゆくフォーキーという名のキャラクターを見ていると、ゴミ扱いにされてゴミ同然のように捨てられた過去をわたしはふっと思い出す。用済みとなればクビを言い渡される会社をいくつか転々として来たが、会社にとって都合が悪くなると何の能力もないわたしは抵抗もできずに解雇されていた。いや、むしろ自分のほうで解雇される理由を作っていたのかもしれない。出る杭は打たれるようで、目立たないように生きるのがこの日本社会では無難なようである。「犬になって、ピーナツをうまく口に入れたら、残業は許してやろう」と某会社の支店長が言ったとき、わたしはこの支店長の教養のあまりの無さに幻滅してしまった。「ほれ、這いつくばれ」と言われたので、わたしはニタッと薄笑みを浮かべて、「今月分の給料を支払ってもらえますか?」と訊くと、「おっ、帰るか」と年寄りの支店長が顔にいっぱい皺を寄せて言ったのだった。わたしには「おっ、辞めるか」と聞こえた。
すると、面倒見のいい先輩がわたしに近付いて、「古川の今月分は、どうなってる?」と事務員に聞いてくれた。若い女性の事務員は淡々と「2万円です」と言うと、支店長が支店長机から「お、そうか。2万円渡してやれ」と言うや、事務員は淡々と封筒にお金を入れてくれた。わたしがそれを受取ろうとすると、横から先輩が「1万円はお前の世話分として頂くワ」と言って、わたしの手元には結局1万円しか残らなかった。自宅の家賃が当時は1万円だったので、ひと月働いて給料がたったの1万円では当然生活はできない。歩合制の仕事はするものではない。わたしは1万円だけ受け取ると、社員みんな素知らぬ顔で机に向かっていたので碌に挨拶もせず、支店長とも顔を合わさずに会社から出た。
祇園の夜風が心地よく吹いていた。南座の前を歩いて、鴨川が流れている四条大橋を渡ると、人通りの多い河原町に消えていった。45年前にはあった駸々堂の本屋に立ち寄るのが、当時は唯一の楽しみだったので、自然とそちらに足が向いていたのである。河原町で満喫すると、京都バスの岩倉実相院行バスで岩倉の自宅に帰り、1年勤めた営業ノルマの会社はその日やめた。運転免許や技術の資格、大卒の学歴、あるいは知り合いのツテでもあれば、もっと他の長続きしそうな仕事に就けていただろうが、23歳頃当時のわたしには、何の資格も学歴も備わっておらず、京都には知り合いもなく何もかもが中途半端であったから、解雇に追い詰められても仕方がなかったのだ。京都ではどれほど仕事を転々としていったか、恥ずかしいかぎりである。当時のわたしには文学と音楽と放浪の旅しかなかった。ただ、襤褸のような経験は、小説家になりたい青年の眼をいくばくか肥やしたかもしれない。ゴミ扱いされた者の視点から、ゴミ扱いする者を観察するには、思慮深さと苦い経験が意外と執筆で表現するには役立つようだ。人としての優しさを忘れたら、作家とはいえない。フォーキーに魂を入れてくれた製作者はすばらしい。
(2020/09/11)
文・古川卓也
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