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いつか、あの日・・・

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選択

生い立ちの環境に人はおのずと影響を受けるが、自分を変えたいと思うようになるのは、いったい何歳くらいの頃からだろうか。少なくとも小学生のあいだは、悪いことはしても、自分を変えたいなんて思う年頃ではなさそうだ。中学生、高校生になったら、どうだろう。スポーツで競技成績を高めるために、鍛錬と練習に人一倍努力して全国制覇を成し遂げる人々もいるだろうが、ここではスポーツ競技で優勝するために自分を変える肉体改造のことを指しているのではない。あくまで、人としての人格のことを指しており、自分がどれだけ変われるのかを言っている。ある意味、動物から獣、人間らしさ、人間性を含む文化的カルチャーの豊かさを天秤にかけて、という意図で発言をしている。

最近の若い社会学者はやたらカタカナ言葉で社会現象のロジックを説明するが、まあそういう世相だから仕方がないのかもしれないが、おそらく英語もペラペラなのであろう。国際的にはそれで通じるだろうが、日本語の言語でしか思考しない私のような者には、単に英語の骨格としかみえず、その表現では人間の姿を見て、おいそこの骸骨、と言われてるような薄っぺらい表現にしか伝わらない。人それぞれが人の道を歩むとき、さまざまな岐路で選択しなければならなくなるが、選択いかんによって、あらぬ方向へ舵を切らねばならぬのが常であろう。その場面での選択は自分の意志となる。他人の激励や指示や使嗾(しそう)によってそれを選択したならば、それも自己責任で負う意志となる。目標をどこに置くかによって、選択の自由にも希望はみえてくる。

最悪なのは、意志の選択ができない思考力の欠如だ。いい影響を受けたい、という自分に課す気持ちすら湧いて来ないニヒリズムの暗雲に覆い尽くされてしまう状態だ。虚無は人生を破壊する。どんなに小さくても人間らしい知恵を抱くことは、明日への一歩だ。だが、その一歩さえ踏みにじろうとするのが虚無なのだ。むなしさはやがて絶望へとつながるものだ。そして、ますます虚無を拡げてしまう。この悪循環は断ち切らなければならない。人が人として生きてゆくために、他に道はいくらでもある。能力を問われるような世界に生きてストレスも無い者は、ひたすら闘えばよい。自分の名誉のために血眼になればよい。能力を問われるような世界に生きたくなければ、好きなことだけを選択すればよい。ただし、人の道に反するようなことは避けたほうがよい。その方が好きな世界がますます拡がってゆくからだ。鬼畜、殺戮、粛清、戦争、無慈悲などは、虚無の悪循環に陥るからだ。虚無の連鎖は人を破壊し、すべての命を破壊し、地球規模で破壊を招くからだ。そこへ追い打ちをかけるように、2020年1月に始まった新型コロナウイルスによる伝染病のパンデミックは、2021年5月1日現在いまや収束の気配はなく、世界規模で蔓延し、感染拡大の一途を辿っている。累計で世界の感染者数は1億5000万人を超え、コロナ感染による死亡者数は316万人を超えた。インドでは壮絶な医療崩壊を招き、大災害のような惨劇を連日起こしている。毎日4000人ほどの死者が至る所で火葬され続けている。信じられないような光景に胸が痛む。

日本国内ではどうか、1年4ヶ月余りが過ぎて国内の感染死亡者数は1万人を超えている。第4波に襲われて、特に大阪が毎日大変なことになっている。医療崩壊で入院もできずに自宅で亡くなっているのだ。このような状況を作ってしまったのは、国のトップが采配できずに感染対策の選択が強固に判断できず、実行力を伴った行動力の欠如を物語っている。一般の会社では役に立たない人材といえる。実社会の荒波では到底立ち向かえない個人技の軟弱さが露呈しているとしかいえない。リーダー失格である。人を動かすことが上手く出来ないのだ。人は時にカネや権力の奴隷になることもしばしばだか、それらに従わない時もあるのだ。人を動かすのは力よりも心の場合が多い。目の前にある、そこの危機に直面した時、すっと手を差し伸べることのできない臆病者では大衆の上には立てない。体を張って生きてゆくことは、案外と難しいものだ。1人の命が救えないのに、1万人の命が救えるわけがない。医療従事者たちが現場でどんなに頑張っても、こんな日本政府の意気地なしの元ではどうにもならない。自宅で死を待つしかない人の気持ちなど判ろうはずがない。ぐうたらな記者会見を繰り返すより、コロナ病棟の現場を1時間でも2時間でも自分の眼でたくさん視察し、自分にいったい何が出来るのかを考え、実行すればよい。毎日会食ばかりして来たことへの懺悔にもなる。

今のような状況下で、東京五輪開催ありきでしか猪突猛進しない無慈悲な日本政府は、実に人の道に反しているといえる。客寄せパンダの有名人を利用して聖火リレーをし続けているこの国は、感染拡大防止を唱えながら、密にならないように騒音宣伝カーを走らせている矛盾パフォーマンスは無神経の極みである。異常な多額の税金を使って民衆を扇動させている光景は、いずれ悲劇を招くに違いない。今は世界が疫病戦争の真っただ中にある有事であって、何事もなく平時で平和の祭典ならば大歓迎ではあるが、これほどノーテンキな国家は、恥知らずというより、そこに莫大な五輪ビジネスが横たわっており(よだれ)を垂らしている、ということであろう。五輪開催を再度延期したり中止したりすれば、日本という国が転覆するとでも思っているのか、あるいは大損害を胸算用して、ますます経済大国が没落してしまうのを懸念しているのか、アメリカにもIOCにもご機嫌をとらなければならない軟弱な判断力こそが、世界の恥になるのだが、リーダーシップの器でない者を担ぎ上げた政権与党もさることながら、そんな政権を支持してみえる日本国民の選択は、本当にそれでよいのだろうか。与党と野党で政権を争うなら、わかりやすく二大政党にすればよいものを、だらしない複数野党がいかに算数に弱いかがよくわかる。自分たちの国会議員給与の安定しか望まないのであれば、いくら批判し合っても、この国にいい未来の形は無く、不毛ばかりが続くということだろう。スポーツ狂い大日本帝国万歳!は永遠に世襲により続くのだろう。悲しいというより、日本という国が情けない。

こんな感染状況のなか金メダルなぞどうでもいいのに、人命より五輪のことしか考えられないアスリートとは一体何なんだろう。五輪アスリートたちは今こそ五輪競技をすべて棄権して意思表示すべきではないのか。日の丸の国旗掲揚より、これ以上の犠牲者を出さない日本国民のために、自分たちのできる真のスポーツマンシップとは何かを、もう一度考え直すべきだ。メディア操作に翻弄されず、真実の闘いとは何かを真剣に考える時ではないのか。今すべきことの重要さが、のちにその選手のスポーツマンとしての真価が問われるような気がしてならない。芸能人や著名な人たちからも、東京五輪開催の是非をめぐって意思表示する者たちが多く出て来たが、いずれにせよ優先順位を間違えると、国家衰亡の危機を招くことは歴史が証明している。国の無策によって毎日亡くなってゆく一人ひとりの人生にどれだけの重みがあったか、故人への思いを馳せることはとても大事な弔いである。この国でコロナにより膨大な数で死んでゆくのは不運ではなく、政府の怠慢による人災であることを忘れてはならない。東日本大震災と同じく、東京電力が放置していた津波への怠慢無策である外部電源喪失の原発事故と全く同じものだ。自然災害は避けられぬが、人災はリスクを予想して防げるものだからである。早い決断が出来ない、選択が出来ない政権は、民主国家を司る議員職からさっさと退場しなければならない。政府よりも発信メッセージの強い感染症専門機関、いわば米国のような疫病専門指導プロの疾病管理予防センターすなわち日本版CDCの設置が何よりも急務といえる。もはや古い体質の研究所や行政機関の権威など、防疫の(たて)にはならないことを自覚すべきなのだが、石頭は割って消えてもらうしかないのだろうか。かつて日本を不沈空母と喩えた者がいたが、どうやら沈没してゆく兆しが見え始めているのは眼の錯覚なのか。



Underworld:Blood Wars

ゴールデンウィーク・ステイホームの休業期間中にわが家でいろいろ映画鑑賞をした。『グリーンブック』(2018年)は久し振りに、これぞ映画中の映画だと思った。珍しいほどの感動があった。『ワンダーウーマン1984』(2020年)は期待しすぎてBD購入までには至らなかった。BDレンタルで完了してしまった。ガル・ガドットがわるいんじゃない。前作が良すぎて、本作のトーンがあまり胸に伝わらなかったのかもしれない。音質もなぜか手を抜いた感じで、製作自体にどこかで観て来た感が拭えない。『ハリーポッター』シリーズや『スーパーマン』シリーズに『スパイダーマン』シリーズに『ジャングル・ブック』(2016年)にも似たアクションが多く、シナリオに鮮度がみられなかったのは残念だった。クライマックスのバーバラ・ミネルヴァ演じるCGチーターとの闘いにもリアルな迫力が物足りなかったのはなぜか。怪人チーターの配役がもし『キャットウーマン』(2004年)・『チェイサー』(2017年)のハル・ベリーのようなアクション女優だったら、また見方も違っていたのかもしれない。しかし、主役はやはり1人がいい。

それから、『TENET』(2020年)も期待しすぎて支離滅裂の罠に嵌まってしまった。別段映像にも音質にも圧倒されたわけでもなく、時空を操る荒唐無稽なストーリーには飽きるほど観て来たが、リアリティの表現も映像技術を駆使していた割には、まるで古いビデオテープの巻き戻し映像との組み合わせにしか見えず、どこをどう感動すべきなのかよく判らなかった。ただ一点だけ印象深かったのは、エリザベス・デベッキの超長身191cmのすらりとした体形とプロポーションだった。さすが、かつてファッション誌『ヴォーグ』に出ただけのことはある。最後に巨大ヨットの高いデッキから海に飛び込むシーンがあるが、その美しい放物線を描いて飛び込む姿態には驚かされた。バレエダンサーであり演劇の学位も取得している彼女は、スタント無しであの高さから本当に飛び込んだのだろうか。気になるところではある。元飛び込み選手だったジェイソン・ステイサムと同じように美しく飛び込んだとしたら、これは凄い女優ということになろうか。映画の楽しみ方は人色々だから、これはあくまで私のオーティオホームシアター鑑賞の一齣にすぎない。

『ロボット2.0』(2018年インド映画)は、さすが『ロボット』(2010年インド映画)の続編とあって最高難度の製作巨編といえる。2010年製作の『ロボット』は当時レンタルで観て大層感動した記憶があり、その続編が出ていたのを知ったのはつい先月のことで、CSムービープラスのTV放送がきっかけだった。ドルビーアトモスでのサウンド収録は、そのまま私のオーディオホームシアターでもその見事な音質が確認できた。音質はさることながら、先ず映像の発想に驚く。深刻な社会環境問題にひそむ携帯電話を引き金とする電磁波の取り扱い方に視点を持って行かれる。まあ、携帯電話の電磁波問題は周波数が高くなればなるほど人間の脳に少なからず悪影響を及ぼすだろう。X線やガンマ線などの電離放射線とは違って、可視光やミリ波といった非電離放射線といえども、LINEやゲームなどでスマホ画面と脳の距離が30センチ位離れていれば、さして問題はないかとは思われるが、携帯なくして生きてゆけないという人は、たぶんすでに脳は電磁波攻撃を蓄積していて脳細胞組織の一部を「依存症」という精神的な洗脳麻痺なるヤケドをすでに負っているだろうから、その麻薬的な快楽が脳腫瘍へと変わることはあるかもしれない。携帯を捨てられずに、国家の仕組んだ傀儡の一員として一生を過ごすことに自ら疑うこともない。大企業の繁栄こそ古参政治家がしがみつく日本の構図なので、この都合のよい利権構造をわが国は決して手放さないだろう。若い世代が気の毒ではある。個性を失ってゆく若者たちが、「共有」という(まじな)いに捕らわれて、出る杭は打たれ、夢や希望も(しぼ)んでしまうのだろう。少子化問題は社会や国からの圧力によって生じているものなので、芽を摘まれてしまってはどうにもならない。

さて、本稿の主題となる映画『Underworld:Blood Wars』(2016年米)については、圧倒的な音質クオリティの一語に尽きる。BDの音声仕様は字幕・日本語吹替いずれもDTS-HDマスターオーディオ5.1chサラウンドである。この映画だけはTV画面だけで鑑賞するにはあまりにもったいないスケールであろう。ヴァンパイアの処刑人セリーンを演じるケイト・ベッキンセールのカッコよさは言わずもがな、『アンダーワールド』シリーズ第5作目となる「ブラッド・ウォーズ」では、ヴァンパイア族と狼男ライカン族との死闘が繰り広げられるのだけれども、第1作目からの流れとして、そもそもヴァンパイアとライカンとの最初の混血種であるマイケル・コーヴィンを愛したセリーンはやがて娘イヴを産むが、イヴがヴァンパイアとライカンとの混血種という両種のハイブリットを兼ねた直系にして特異な存在のため、その血を狙うライカン族からイヴを守るセリーンの行動展開とアクションは、いつ見ても生死観が凄まじく美しい。映画『Underworld:Blood Wars』の音質・映像については、別のページで触れてみたい。



いつか、あの日・・・

誰にでもやって来る人生の黄昏。この世に生誕して、人はそれぞれの生涯を過ごし、いつか終えて逝く。何の前触れもなく突然やって来る運命もあれば、生まれつきハンディを背負って生きねばならぬ者もいる。静かにその時を迎えて運命に従う者、精一杯やれることをして満足してゆく者、人それぞれがそれなりの足跡を残して過ぎ去ってゆく。運命にあらがう者もいれば、足枷を外して切り拓いてゆく者もいるが、いつかは誰もが黄昏を迎える。そうであるがゆえに、いかなる生涯であっても、生きていた証しは大切にしなければならない。あらゆる大切な思い出は、かけがえのない財産である。いろんな思い出の中から、今回、ある日の出来事をこのページにちょっとだけ額縁に挿し入れてみた。

2005年8月7日、ある地方のショッピングモール小野田サンパークに、第37回2005年度ミス日本グランプリ受賞の久米里紗さん(当時21歳)が第2回おのだ七夕まつりのために遠路はるばるやって来られたのだ。サンパークでの七夕まつりを楽しむために私はニコンのデジカメを提げていたのだが、偶然その来場イベントを駐車場会場で知った私は早速カメラでティアラを付けたミス日本をパチパチと撮影。間近に見るミス日本は、さすが美人で、ずば抜けたオーラを帯びていて、なるほど日本一の美貌というものは内なる洗練されたものも兼ねているのだなと知った。こういうことも一期一会なので、ふと思い出して、ケイト・ベッキンセールの額縁に挿し入れてみたのだ。で、なぜ、ケイト・ベッキンセールなのかというと、私が以前PCに取り込んでいた気になる顔だけの画像があって、それが誰なのかグーグルの画像検索で調べると、『Underworld:Blood Wars』のケイトだと後で判り、私はディスク収納しているサイドボードの中からこれを見つけ、久し振りにBDで再び鑑賞し、あらためてサウンドのクオリティーに驚愕感動したってわけである。そんな経緯もあって今回このようなWebページを制作してみたのだった。


(2021/05/06)

文・ 古川卓也


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