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  パリに魅せられて


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I love Paris / J'aime Paris


何て素晴らしいパリの町通りなんだろう。世界の芸術家を惹きつけるものが、ここにはきっといっぱいあるのだ。私にはパリに住めるような経済的余裕もないから、Adobe Stock に紹介された写真や動画でしかパリを堪能できないけれども、それらの画像や動画は超一流の外人カメラマンたちによる画角だとすぐにわかる。また、素晴らしい海外のイラストレーターやデザイナーも随所に現われるから、彼らの作る作品にもついつい目を奪われてしまうのだ。若い頃の林芙美子も当時のパリに8ヶ月間くらい滞在していたようだが、歴史が息づく街並みには何だか人の温もりも伝わって来て、今のパリ市民もそれら建物の景観を大事に受け継いで大切に補修しながら守っているような気がする。丸テーブルやイス、そしてカフェのコーヒーやワイングラスなどの小物も大事にしながら、装飾品などにも手の込んだ文様を楽しんでいるかのようだ。

中原中也はフランス詩人の飲んだくれヴェルレーヌの詩をこよなく愛してやまなかったが、ボードレールやアルチュール・ランボーの詩も好きだったようで、19世紀半ばのフランスの頽廃的象徴主義の影響は中也自身の詩にも感化されてみえる。美しい言葉だけの詩というより、韻を踏んだ中也の日本語の詩作品はどれも立派すぎて、中也からの影響はそのまま私自身の文学にも多大な影響を与えて来た。詩を含んだフランス文学の薫陶は、そのまま若い時の自分の乱読耽溺時期20代をすっかり占領してしまったかのようだった。過酷な時代の「放浪記」は林芙美子にもあったが、戦後生まれの平和な時期にありながら、私自身にも似たような情けない屈折した「放浪記」はあったのだ。

比較するのもおこがましいが、そんな情けない自分を救ってくれたのも文学の世界だった。ドストエフスキー文学の影響なくして、今日の自分の自己形成はきっと築けなかっただろう。文豪ドストエフスキーの純文学は、あらゆる人間描写といい、風景描写の達人ともいえる。三島由紀夫が欲しがっていた「もう一つの眼」も、ドストエフスキーはすでに備えていた。シベリア流刑の獄中生活も凄かったが、『死の家の記録』では己れの実体験を基に描かれているが、三島由紀夫の空想小説とは程遠い世界ではある。知的美文体の三島文学にも影響を受けた私だが、どちらかといえば現実社会をよりリアルに描きながらも人間味を最優先するドストエフスキー文学のほうが遥かに気高く凌駕しているといっていいだろう。もちろん時代環境も違うし、国柄の風土も異なるから比較はできないが、三島の『豊饒の海』の日本語文章は谷崎潤一郎の文章と共に優れた格調ある言葉遣いの双璧とおもわれる。泉鏡花もしかりだ。

現代のバカバカしいと言っていいほどの、簡略されたカタカナ混じりの俗語や絵文字付きのSNSの貧相な日本語文章をみていると、あたかも画像的思考が優位なようで、インスタ映えと流行語が最前線のファッションでもあるかのような錯覚に陥ってしまい、本音で言えば、そのような日本語は見るに堪えない幼稚さではある。幼稚な文章は幼稚な精神から来るだろうから、たとえ立派な正論にみえても、見映えの良い体裁だけの、立派にみえて立派でない詭弁か胡散臭い誇張にしか見受けられない。日本の選挙演説とそう違わない。自分自身を正当化し、猜疑心と詐欺と計略のオンパレードだ。まあ、SNSで誰がどう言おうが、何にこだわろうが、すべては個々人の自由ではある。いちいち目くじらを立てて、大真面目に反応するのも大人げないし、知名度でPV数を上げて広告収入やdポイントを貯めてゆくのも、みみっちい生き方にしか私には思えない。たった一度の命の時間を無駄にしたくないのだが、ヒマな人間も随分いるのだろう。この現在の瞬間にも、爆撃されて逃げ惑う弱い民衆を、まるで人殺しゲームのようにターゲットにして、ほくそ笑んでいる悪党の権力者たちがいるが、領土拡大といった野望と己れの手柄を標榜したい低次元の怪物どもには、まったくうんざりする。弱い大衆を虐げるのではなく、権力を振りかざす自分自身を自分の手で自ら粛清すればいい。自ら死ぬ勇気がないくせに、他人は平気で人殺しをしでかす鬼畜ともいえる。

どんな弱々しい人間にも、けっしてささやかな命を葬ってはいけない。家畜のように人間を単純に殺してはいけないのだ。林芙美子の「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」なら、まだましなのかもしれない現代で、殺戮ゲームはもうやめてほしい。地球は46億年かけて命と水を作ってくれたのに、大地と水は天文学的には太陽のおかげであって、人間の誰のおかげでもない。人間が創った「神」という造語は、それぞれの国の国民が生き抜くために作った「知恵」という秩序にほかならない。神の偶像があろうが無かろうが、都合のいい秩序のためにわざわざ戦争や紛争を起こすなんて、人間がいかに愚かな生きものであるかを証明している。であるがゆえに、学校では命や愛情を子供たちに心底から注ぐべきではないのか。スマホやタブレットやパソコン機器を生徒たちの机にやたら増やすのではなく、もっと大切な時間を黒板アートや日本文学、世界文学なんかに費やして、成績や採点なんぞ窓から捨てちまえ!! って言ったら、学校から怒られるかな? いい学校、いい会社に就職させたい、って大人や親のエゴじゃないの? 子供は(しつけ)も大事だがけっして洗脳してはならない人間社会の「たからもの」なのだ。





『ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge!)』 (2001年 オーストラリア・アメリカ合作映画)
   監督: バズ・ラーマン  主演: ニコール・キッドマン  ユアン・マクレガー



パリといえば、私はすぐに映画『ムーラン・ルージュ』のことを思い起こすのだが、はて、あれからこの映画が公開されて20年以上が経ってしまうと、あらためてもう一度鑑賞してみたくなった。当時、何度も何度も観たのに、映画の不思議さというのは、心を揺り動かし、またもう一度再会してみたいものなのかもしれない。記憶や知識とは関係のない幸せな世界観に包まれるからだろうか。本格的な映画や好きな映画はホームシアターで鑑賞するのが私流なので、鑑賞し終わったら、このページで再度『ムーラン・ルージュ』に触れてみたいと思う。映画は映像とサウンドの高級ブレンドなので、ましてミュージカル映画にしてラブ・ストーリーとなれば、音質や歌声も気になるところだ。映画は音づくりを楽しめる玉手箱でもあるから、音響なくして映画鑑賞は考えられないのが今の私のエンジョイ方法ではある。


(2025/09/01)


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文・ 古川卓也




制作・著作 フルカワエレクトロン

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