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4月1日(月) 時代の壁
失ってゆくものが大きすぎる。例えば、印鑑はやめろ、FAXはやめろ、紙はやめろ、現金払いはやめてキャッシュレス決済にしろ、アナログなんかやめてデジタルにしろ、老いては子に従え、高齢者になっても老眼になってもスマホを使え、汗水垂らしてあくせく働くより投資で稼げ、ガソリン車はやめてエコカーか電気自動車EVにしろ、これからは脱炭素化社会に向けてクリーン社会を目指さないといけない、原子力も大いに利用すべきだ、たしかに原発はトイレの無いマンションではあるが、核のゴミはそのうち何とかなるし、100年も経てばそんなものみんな忘れる、人間は何事も寛容さが大事なんだから、政府から言われるままに従順に人生を楽しめばいいんだよ、スポーツ観戦してバラエティTV番組で笑って、子供や孫たちが元気だったら、それでいいじゃないか、SNSで悪口を言われたら、そいつの悪口を言ってやれ、けっして悲観して自殺なんかしちゃいけない、みんないつか誰も死ぬ時が来るんだからさ、老いぼれた高齢者になっても生きれるだけ生きた奴が最後に勝つのよ、地獄の沙汰も金次第、真っ当に正義をかざして生きるほうがどうかしてる、人間なんてものは腹の底で何考えてるやら、所詮、仏心も徒になるものよ、いいから何でも時流に沿って新しいものに変えなくちゃ、時代に乗り遅れるぞ、…… と。
世相というものは、どの国家であれ、ネットやメディアの情報操作に脅されて使嗾 ( しそう ) されがちだが、不変のスピリットがいかに大事か、この頃よく痛感する。昔の作家は政府や政治の堕落をよく糾弾しては政治家からも怖れられていたが、この頃の作家は保身を優先して政府への糾弾は避けてみえる。また、日本では道徳よりも優秀な成績や経済成長を何よりも最優先しているように思われる。観光資源国だと錯覚し、外国人観光客を呼び寄せるのに必死なようだ。そのためにやたら無駄な建造物を増やそうとしている。日本文化の原点は、一千年にわたる歴史文化であり、残された風光明媚や四季が美しい自然の営みである。それらを守り続けるのが道徳である。けっして経済発展ではない。優先順位が間違っているから、過重労働の残業問題や事件も多発するのである。人間関係も利害関係もそこの歪みから、いびつな社会形成が生じるのではなかろうか。信頼関係も道徳があってこそ成り立つのだと思う。「ギャンブル依存症」なんて当人に都合のいい精神疾患であって、日本語を舐めている。病理的な「薬物依存症」なら医学的にも成分組織の反応が体内で起きる症状なので納得できるが、「ギャンブル依存症」という症例にはとても違和感がある。症状に何でも依存症を付けたがるのは、合理主義社会のご都合だ。
カジノなどの賭け事が好きな人々は昔から世界中にいるが、私も小学4年生の頃にはワルガキで花札やトランプ、ポーカーなどに、しょぼい小銭で賭け事をしていた記憶があり、21歳のとき初めてパチンコもした。300円が1000円分になったので景品交換はすべてクッキーなどのお菓子に変えて持ち帰った。のちに店の裏手にあった景品交換所で現金化の快楽も覚えた。それでも娯楽遊戯代として1万円未満までしかパチンコには使わなかった。負けてもそれ以上はお金を出さなかった。安月給だったので手持ちのお金と分相応にけじめをつけていた。そもそも20代ではお金よりも本代のほうが遥かにかかっていた。書籍代には金に糸目をつけなかったのだ。それでも分相応にわきまえて、無茶なことはしなかった。あらくれ小説家の分際で、まったく「カネ」というものに興味がなく金儲けに興味がない習性だった。人間観察と文学書にだけ興味を持っていた。カネはあくまで欲しい物を手に入れるためのツールであって、カネ自体は政府の法定通貨とはいえ、当時は紙クズ同然にしか思っていなくて、それはすなわち、日本画や油絵などの芸術作品には大変興味が湧いてゆく価値観との相違であった。
世界の美術品を観たくて京都に移り住んだのもそれが理由だ。美術鑑賞や寺巡りや日本庭園散策、それに加えて映画鑑賞や音楽鑑賞、また旅好きで日本各地の名勝をたしなむのがすべての生き甲斐だった。世界の一級美術品展覧会が日本で催されると必ず京都の美術館にもやって来るので、自分の貧しい感性を高めるには絶好の機会に思っていたのである。わずかな入場券で一級品に会えるのは最上の歓びだった。カネは無いよりあったほうがいいが、カネは集めることより何かを買ってこそ価値が見出されるものだ。わずか300円の文庫本でさえ感動が得られる文学世界を私は尊重している。言葉は大事だ。その人の考え方も言葉の量や正確さで精神も形成される。近頃は円安で物価も高騰し、文庫本もずいぶん高くなって来たが、精神の欠如はやはり物悲しい。衣食住だけでなく人間味や人間性が表われる教養にもお金をかけてほしいものだ。この度の「ギャンブル依存症」問題の根幹には、人徳の無さやモラルの欠如を露呈し、その中毒性から逃れられずに、長年のカモフラージュで人をも騙せることが証明されている。騙されるほうは傷つくかもしれないが、騙すほうはバレたかと思う程度で良心などひとかけらもない。良心が初めから無いから人を騙せるのである。教養ゼロとは、そういうことだ。思い遣りがありそうなフリをして、悪事が暴露されたら、さっさと逃げるのが手だ。人を罠にかけるそんな人間を私はこれまで私生活でもどれほど見て来たことか、人のよさそうな人ほど悪党のターゲットになりやすいのが世の常である。
3月8日(金) 北國の夜
北國銀行、北國新聞、北國書店 ・・・ 、北國は「ほっこく」と読むことを知ったのは、若い時分に金沢市に住むようになってからだった。けっして「きたぐに」とは読まない。「国」の旧漢字「國」を使っている呼び方に当時は感心したものだった。さすが歴史ある町に風情を感じて心地よかった。香林坊にあった北國書店はいつの間にか現在では名前が見つからず、時世の流れだろうか。あるいは私の記憶違いなのか本屋さんの正確な名前が定かでなく曖昧だ。当時、金沢での唯一の楽しみは香林坊まで出掛けて、北國書店に出向くことだったから、いまだに私の脳裡のなかでは北國書店のままなのだ。ここではずいぶんいろんな本を買ったものだった。その中の一冊が角川書店の「漢和中辞典」である。
この角川「漢和中辞典」は今でもよく使っており、昭和34年4月1日初版発行、昭和51年1月20日160版発行のもので、当時もちろん新刊として購入したものだった。今では外箱も無く帯紙も無く本の背はボロボロになり、一部3センチくらい裂けてもいる。だが、私の頭のなかには、川端康成の推薦文が帯紙に書いてあって、爾来この漢和中辞典は終生の伴侶も同然となっている。発行者は角川源義、編者は貝塚茂樹、藤野岩友、小野 忍の三人の学者によるものだ。とにかく使いやすい。判らない漢字は大方すべて記載されていて便利。中国古文字変遷図や漢文について、あるいは建築図や農耕図・染織図・製鉄・製銅図・製陶図、中国の文様、演劇図・臉譜・曲芸図、方位・中国歴史地図、旧国別日本全図、真草千字文、中国文化史年表などなど、精緻な絵柄説明も随所にあって、120ページ以上もの付録まであり、大変優れた名著の一冊だ。四六判サイズのためコンパクトで持ち運びやすい。それで以て全1536ページもの情報量だ。鬼に金棒のごとく威厳ある存在ともいえる。小説家にはこの漢和中辞典と広辞苑(岩波書店)さえあれば勉強ができる。もちろん他にもいろんな各種辞典を私はたくさん持ってはいるものの、無名作家とはいえ、この漢和中辞典と広辞苑なしでは文筆は書けない。広辞苑も北國書店で購入したはずである。北國の夜の帳 ( とばり ) は、私の長い文学の始まりをもたらしていた。
2月21日(水) 北陸物語
室生犀星と泉鏡花の故郷である石川県金沢市に若い時分一年ほど住んでいたことがある。七ツ屋町の浅野川が流れる土手下にあった印刷会社に住込みで働いていた。印刷工場は古い木造二階建てで、薄暗い二階の四畳半の部屋で、小さな朽ちた木枠の格子窓が一つあった。割れそうなガラス板に十字の格子窓で、北陸の空と屋根瓦が眼下に見えていた。
食品関係のグラビア印刷会社で、バイトとして職安から紹介されたものだった。当時の金沢駅は24時間駅内にいられたので、まるで野宿代わりに暖炉の効いた待合室で、木のベンチに寝転んでは働き口が見つかるまで居候させてもらった。駅からは地下街もあってオールナイトの日には映画館でも寝た。やっと印刷工場の住込み暮らしに就けるまでに1週間はかかったような記憶がある。外は積雪と吹雪で凍りそうな時期だったので、当時宿借りさせてもらった金沢駅には今も感謝している。東京から金沢に憧れて住んでみた一年間は、文学青年だった当時の私に多大なる影響を与えてくれた。
日本海の海の幸は極上の味わいだったし、能登半島へのクルーザー船旅や釣り、羽咋市の海沿いを走る「千里浜なぎさドライブウェイ」で長い砂浜を一直線に車で走れる千里浜海岸に連れていってもらったり、炭火焼の焼き蛤だの、シロウオの踊り食いだの、印刷会社の社長は社員全員をよく慰安旅行なみに連れてはあちこち楽しませてくれた。クルーザーも社長の所有だった。その年の9月、沖縄旅行へも社員全員を三泊四日くらいで連れてってくれた。仕事は厳しいものだったが、出社8時で夕方5時の定時には、すべての印刷機を止めて社員全員をねぎらって退社させていた。社員思いの社長で、学者を志す半ば、親の会社を継ぐことになったようだった。
工場の二階にあった書庫を社長から一度案内してらったことがあり、まるで図書館のように整然と書籍を所蔵していて、私はびっくりした。さすが青山学院大学卒業だけのことはあると思い、私はすっかり萎縮してしまった。いったい何万冊あるんだろうと呆然となった。まだ若輩者だった私が金沢に住んで、当時、作家を志そうなんて思い上がるなんぞは、今思ってもちゃんちゃらおかしい。けれども、それが青春というものではないだろうか。老いてもまだ作家を志しているのは、きっと気がおかしいのか、ついつい言葉の世界に戻ってしまうのだ。文学の道はあまりに楽しいので、これからも止められそうにはない。誰も読まないであろう私の文筆を、今もこうして日本語のすばらしさに酔い痴れて書いているのは、どうやら運命なのかもしれない。文筆というより、拙文がふさわしいのだろうけれど……。せめて、スマホではなくパソコンかタブレットで読んでいただけると誠に幸いなのだが。当WebはあくまでPCを前提に制作しているので。
2月8日(木)
2024年1月1日16時10分、元旦早々から能登半島で最大震度7、マグニチュード7.6の大地震が発生、令和6年能登半島地震と命名され、当日は自宅でのんびりとTVを観たりして正月を過ごしていたものの、夕方ちかくになって突然、全TV画面に緊急速報が一斉に流れ始めた。そして、その大地震があった翌日の1月2日夕刻6時前頃に、羽田空港で飛行機事故が起こり飛行機炎上の模様がTV画面に何度も繰り返し映し出されていた。後で判ったことだが、日本航空516便が新千歳空港から羽田空港に定期便として着陸するところへ、能登半島に救援物資を運ぼうとして中継場所の新潟航空基地へ向かおうとした矢先の海上保安庁の事故機みずなぎ1号の滑走路誤進入があり、それぞれの機長の視認や管制官の油断など、三つ巴のようなヒューマンエラーによって2機の飛行機衝突火災事故が発生したものだった。幸いにもJAL機516便に搭乗していた乗客367人乗員12人の合わせて379人全員が死者を一人も出さずに脱出生還できたことは何よりだった。負傷者は14人いたが乗務員たちの日頃の非常時の誘導訓練の賜物といえる。これは称賛すべきことである。
一方の海上保安庁の事故機みずなぎ1号の乗員6人の内、機長が重傷で他の5人が死亡というのは、何とも不幸としか言いようがない。機長の胸の内には計り知れない絶望感と重責に苛まれてしまう地獄のような苦悩があるだろうから、誰も責めてはいけない。みずなぎ1号には、Wikipediaなどで調べてみると、これほど悲しい物語はない。機体記号:JA722A(第三管区海上保安本部羽田航空基地所属)は、2011年の東日本大震災の津波により仙台空港で被災し、およそ1年後には修復されて再び現役飛行に復帰。仙台空港で被災した航空機のうち唯一復帰できた機体だったのである。今回の能登半島地震の対応のためにすでに2回も往復していたという。機長もまた事故前日の1月1日には、中国公船警戒のため別の機体で沖ノ鳥島周辺まで7時間の飛行を行っていたそうだ。真面目に生きる人たちになぜ天はこのような仕打ちを与えるのか、残念でならない。事故機の両機とも無惨に焼け焦げてしまった哀れな姿を、TVは何度も中継映像を流していて、それらの映像は能登半島地震のいたましい無数の家屋倒壊や地割れや瓦礫の山などとも混在して、脳裡にまで焼き付いてしまっている。2024年の日本の始まりは、言葉にならない想定外の、いたましい絶句する光景の連続ばかりだが、それでも私は当サイトの「INDEX
DIARY」を今からでも少しずつ書いてゆこうと思う。下記の執筆は2024年度のプロローグにすぎない。
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1月17日(水)
石の話。パリのモンソー公園にある フレデリック・ショパンの記念碑が大理石による彫像とのことで、白っぽいところから、たぶんイタリア・トスカーナ州あたりの産出原石を使用しているのでしょうか。私も何枚か音響用に大理石の板を数種類ほど利用していますが、大理石は普段から身近なものになっています。彫像用には軟らかいビアンコカラーラ(愛称:ビアンカ)がモース硬度3で彫りやすいようです。
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石英を含んだモース硬度7の花崗岩に半肉彫りの彫刻を施すのは現代の彫刻家には考えられないことです。工作室でサンダーや電気研磨機でも使用しなければ、とても花崗岩に彫りものを施すには太刀打ちできません。まして山奥の崖に剥き出した花崗岩の岩肌に高さ4、5メートルの石仏を一人で手で彫るなんてことは到底不可能と言えるでしょう。しかし、古代中国の龍門石窟は同様に主成分がモース硬度7の硬い橄欖岩 ( かんらんがん ) の巨大な岩山に彫り込まれていますから、これは衝撃的な驚きとしか言いようがありません。世界遺産でもある龍門石窟群の古代歴史には実に興味深い真相と謎に満ち溢れていて魅力の宝庫と言えるでしょう。古代史の好きな私も国内外の石仏に興味があって、少しだけ拙著『石仏論考』 の一部をここに紹介しておきます。
「花崗岩と石仏誕生の軌跡を探る」 「序文」
「自然石の花崗岩に石仏はどのようにして彫ったのか、第一の謎」
これらは『石仏論考』内の一部の表題です。奈良時代、花崗岩に彫られた丈六サイズの聖観音菩薩立像の謎に科学的視点、歴史的視点からその軌跡に迫っています。この機会に再度、瀬戸内にあっていまだ眠っている地方の「国宝級石仏」に是非中央レベルの学術調査と見解をあらためて求めます。令和の大発見は半世紀を超えて、いつしか日本の世界遺産の一つとなることでしょう。
1月9日(火)
パリのモンソー公園にある フレデリック・ショパンの記念碑は大理石を刳り貫いた彫像で、「ピアノを弾くショパンと彼のミューズ」( Chopin au
piano et sa muse)という ジャック・フロマン・ムーリス Jacques Froment-Meurice (1864-1947)
の作品 (1906) だそうです。ピアノの詩人には、大きな羽をひろげた宙に舞う天使と嘆きの女神も寄り添ってくれるのですね。羨ましい。さすが、ショパン!
♪ ショパン 『夜想曲第2番 変ホ長調 Op. 9, No. 2』
(フジコ・ヘミングさんの演奏)
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I LOVE MY LIFE 動画加工・文 古川卓也
(2024/01/15 ~ 2024/02/28)