|風景が見える音の世界|ホーム| |
電気職人奮闘記 |
ひょろっぴい 強電から弱電の世界まで携わった電気工事士の音響工学概論 理論と聴覚感性の相違について 水神太鼓 Photo Gallery 映画『その女諜報員アレックス』のドラムサウンド 水神太鼓 Photo Gallery(スライドショー) |
文字サイズの変更: | 小 | 中 |大| |
ひょろっぴい 若い頃、職業を転々と変えながら食いつないでゆくうちに、やれ「腰が軽い」だの「役に立たん」だの言われて来たものの、内心では「こんな仕事はオレには向かん」と傲慢さや文学的自惚れが支配しており、今から思えば、そんな自分がおこがましいイヤな奴だったといえる。碌に仕事も満足に出来ない生意気な青二才であったことだけは確かだ。謙虚さの足らない食えない奴。 強電から弱電の世界まで携わった電気工事士の音響工学概論 音楽理論に精通していない私は単なる素人で、所有するオーディオシステムから聴くだけの聴覚感性に基づく概論を述べるにとどまるだろうが、「いい音してるなあ」とか「魂を揺すぶるじゃねーか」とか、この程度の耳であって、頭でっかちの測定データを分析して周波数(Hz)とレベル(dB)の関係をグラフで表示してみせる機器などは当然ながら持ってはいない。というか、そのような音質研究ラボは部屋には無い。音楽を聴き、映画をホームシアターのように鑑賞し、書棚の本を読み、パソコンで電子部品販売のネットショップを運営する仕事をこなしながら、世に中のいろんな素晴らしい作品に接するのを楽しんでいる無名文士、といったところだろうか。歴史小説や歴史論文、短編小説から長編小説まで長年にわたって書いて来たが、二十歳の時に大学サークルで「青裸」という文芸同好会に入って自分たちでガリ版を刷っては冊子にしていた頃から文学にどっぷりと浸かってしまい、それ以来、今日に至るまで文筆が止まなくなってしまっている。何やらいろんな世界に眼を凝らしている物好き、といったところだろうか。 |
決定的な違い オーケストラの打楽器ティンパニを4つ並べて音の高さを変えようが、日本の大太鼓が響かせる超重低音の響きにはまったく及ばないのは聴けば歴然とわかる。小太鼓のようなスネアドラムをリズミカルに鳴らしても、日本の豊富な種類を持った打楽器の小太鼓から鼓まで、その打ち鳴らす響きの和楽器らしさは、これまた特徴のある世界無二の澄明な空気感を漂わすものだ。西洋と東洋を比べて論じたところで意味はあまりないが、伝統のある民族楽器を互いに受け継いでゆく価値は、世界共通の認識であろう。 確かに高額なストラディバリウスのようなヴァイオリン楽器を生演奏で聴くのは大変恵まれた貴重な鑑賞時間となるが、その音色の再生音をオーディオシステムで再現して聴き取れるかは所詮不可能かもしれない。スプルースという良質な木材を330年も寝かせて乾燥させ、強固な板を使って作られたストラディバリウスのようなヴァイオリンの真の音は、プロ奏者の耳でしか区別できないだろう。たゆまぬ音質追求があってこその名演奏も生まれるのであろう。楽器の追求もあって当然といえる。どんな曲であっても、高音質であればいいのかどうかはさておいて、私のような凡人の耳では、音質も楽曲もすべては出会いなのだ。こんな音でこんな曲に触れられるとすれば、この上もない幸せなのである。PCの音源であっても、そこからMP3の音源を拾い出し、CDからSACDハイブリッドへの今回のような「アールアンフィニ」収録の音源へと導かれる出会いは、意味深くはある。CDプレイヤー音の64倍の精度を持つスーパーオーディオCDことすなわちSACDプレイヤー音をまだ設備していない私には、ややこしいケーブル接続にいまだ躊躇もあるのだ。過去にハイレゾ音源が馴染めなかった経緯もある。あの低域がスカスカに聞こえてしまう光接続がイヤなのである。むしろナチュラルなアナログ音源からますます遠ざかってゆくデジタル音源に思えたのだ。有機的な自然音には草の匂いもあるし湿った空気密度の重みもあるのに、究極のデジタル音にはそれらがゴミかノイズにしか計算されず、無機質な試験管内の音源となってはいないか、その点がわだかまっているのだ。
上図は現在用いられている等ラウドネス曲線(赤線)であるが、40フォーンの標準表示(青線)が1933年頃初期のラウドネス曲線で、この図を見ていると、人間の音に反応する性質もみえてくる。音圧レベルの表記は騒音レベルにも使用されるが、音響工学として利用するならば、聴覚特性として捉えるべきだろう。特性が感性になることで、人の受けとる感覚も変化する。作曲はそうして聴覚感性から生まれている。何も感じない聴覚感性は、時に音痴にもなりかねない。感受性の豊かさと天性の直感が、意外と名曲を作っているのかもしれない。14世紀から16世紀のルネサンスや18世紀から19世紀のクラシックの誕生には、そうした天才たちが特別な時代背景の恩恵にあったかとおもわれる。。そこには大自然の美しい大気と美しい大地が途方もなく広がっていたことだけは確かだ。環境破壊を産んでしまった現代では想像し難い、二度と取り戻せないほどの、地球の美しさに包まれ覆われていたことだろう。 |
(2023/04/10) 文・ 古川卓也 |