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シネマ日記 2008



『ある日どこかで』  『プラダを着た悪魔』  『オペラ座の怪人』



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『ある日どこかで(Somewhere in Time)』(1980年米 103分)
【監督: ヤノット・シュワルツ  原作・脚本: リチャード・マシスン  音楽: ジョン・バリー  撮影: イシドア・マンコフスキー  主演: クリストファー・リーヴ/ジェーン・シーモア

2008年11月28日NHK杯国際フィギュアスケート女子ショート(SP)でアメリカのアシュリー・ワグナーの演技が始まると、何とも美しい音楽が流れて来た。28年前の映画『ある日どこかで』の主題曲だった。翌日早速レンタルDVDを借りてこの映画を観た。この曲は今月の12月26日の全日本選手権女子で浅田舞もショート演技で取り入れている。浅田舞選手にふさわしい曲ともいえる。妹の浅田真央選手は現在、別格の世界一美しい『仮面舞踏会』で高度な好演技を見せているが、おそらく世界でただ一人、浅田真央にしか出来ない絶品の技と美の演技だ。また、上品な黒い衣裳が華麗で印象的だ。さて、映画に戻る。

クリストファー・リーヴ主演のこの映画は、スーパーマン・シリーズ(1978~1987)を演じたリーヴのイメージとはまるで程遠いラブ・ストーリーの珠玉作品だ。何と言っても全編を覆い包むジョン・バリーの美しいメロディに尽きる。情感豊かな優美な曲にうっとりと包み込まれる。音楽を優れた芸術そのものとすれば、映像というか撮影手法そのものも優れた絵画的要素に包まれているといってよい。まるで動く油絵だ。それも19世紀のフランス印象派ルノワールやモネのタッチとよく似ている。光と穏やかな安らぎに包まれた風景画の色彩である。映画の舞台も時は1912年にまで舞い戻る。その頃の時代色や風俗衣裳、建物や人間の社会的慣習まで細かに再現されていた。映画の物語は一旦1972年を基点として、ミルフィールド大学で脚本家志望のリチャード・コリアー(リーヴ)が処女作品上演後のパーティー会場に姿を見せるところから始まる。そして作品の成功に酔い痴れていたところへその場に居合わせていた一人の上品な老女が彼の前に現れ、歩み寄って、品よく「帰ってきて(Come back to me)」と強く囁き、リチャードの手に金の懐中時計をまるで何かの忘れ形見であるかのように手渡すと、その場から忽然と立ち去ってしまうのだ。それから8年後の1980年、脚本家リチャードの迷走が始まる。

1980年のリチャードは、グランド・ホテル内の歴史資料室の壁に掛けられていた一枚の肖像写真と遭遇するが、この一目惚れのリチャードの恋こそが、この映画の何とも不思議な恋愛物語の核になってゆくのである。1980年から1912年の過去にタイムスリップして、この額縁モノクロ写真の若き美貌の女性に会ってみたい、という発想は確かに現実離れしたストーリーではある。しかしながら、現実離れした脚本を実際に映像化することこそが、実はSF映画の面白さでもあるわけだ。『スター・ウォーズ』がそうであるように、非現実的な脚本もリアルな映像を具現化することで、映画の楽しさも倍化する。1972年に老貴婦人から「Come back to me」と言われた場面がここで甦る。あの時の老貴婦人こそが、実は、ホテル内の歴史資料室の壁に掛けられていた、1912年当時の若い時に撮影されたもので、その若き肖像写真の本人であったことが判明するのだけれども、時間の壁を往き来することは、映画ではそれほど難しいことではない。1912年まさに売り出し中の舞台女優ヒロインこと、エリ-ズ・マッケナ(ジェーン・シーモア)の登場は、美しい風景画のなかにもさらにまばゆいばかりの輝きと美しさを放って魅惑的だ。彼女に恋をして擦り寄る美男リチャードと、やがて、エリーズも恋に陥ることに。女優エリーズを育てて来た付き添いの中年男のマネージャーは、彼女に付き纏う若いリチャードを寄せ付けぬようあの手この手で追い払おうとするが、恋に落ちた若い男女の逢瀬を最早誰にも止めることは出来なかった。が、しかし、ここで時間の矛盾が魔の手のように訪れて来る。上着のポケットから取り出した1980年製のコインが、今は1912年でないことを無惨にも告げることに。時計の針は猛スピードで回転し、時は1980年の今に戻ってしまう。

もう過去に引き返すことが出来なくなってしまったリチャードは、エリーズを失ってしまった深い悲しみと絶望に打ちひしがれ、苦悩の果てに、返らぬ想い出をいつまでも見つめるかのようにして、ホテルの一室の窓辺に椅子を寄せて、1週間も椅子に凭れ掛かったまま衰弱してしまい、静かに息を引き取ってゆく。そして、再び天国の門でリチャードは手招くエリーズの元に帰って来る。「Come back to me」。やっと天国で取り戻したエリーズの姿をみて、リチャードの顔にも微笑が。ジョン・バリーの心やさしい曲が、いつまでも二人を包み込む。28年前のクリストファー・リーヴの主演映画を観て、胸がこみ上げて来た。1995年の落馬事故で脊髄損傷を起こして首から下が麻痺してしまったリーヴは、その後も懸命にリハビリを努めながら映画などの仕事に関わってはいたが、2004年10月9日、自宅で心不全を起こし昏睡状態となって、10月10日に他界してしまった。享年52歳だった。生年月日が私と4日しか違わないので親近感がとても残る。そんなクリストファー・リーヴの映画『ある日どこかで』を観るきっかけともなったアシュリー・ワグナー選手に今一度感謝したい。

(2008/12/29)

 先頃、国連平和大使に任命されたシャーリーズ・セロン。オスカー受賞の衝撃名作『モンスター』(2003)以降、『イーオン・フラックス』(2005)で体型を戻した彼女の演技には実に驚かされたが、『スタンドアップ』(2005)や『告発のとき』(2008)などでも人権問題に情熱を傾ける彼女の姿勢は、本当に敬服に値する。女優として人間として、そして女性として大変魅力的だ。彼女がドストエフスキーの愛読者でもあることが、また何ともすばらしい。

(2008/11/19)




『プラダを着た悪魔』(2006年米 110分)
【監督:デイビッド・フランケル  脚本:アライン・マッケンナ  出演:メリル・ストリープ/アン・ハサウェイ】

”ステキ”とは何か。”オシャレ”とは何か。それは着飾ることでもなく贅沢な身なりをすることでもない。自分に合った、身の丈に合ったセンスを身に纏うことだ。分不相応な勘違いから、時としてその姿は野暮にもなる。しかし、キレイな体が一つあれば、向こうからブランドは近寄って来る。美しい衣一枚がそよ風にのって貴女の裸体を包むだろう。うっとりと、あるいはしっとりと、透けた体の向こうには海も見えるだろう。まるで丘の上には風車がみえ、気がつけば天使の羽をくれたように、衣は軽やかに体の一部となって、心を癒してくれるだろう。モノクロのシルエットにロイヤルブルーの濃い色彩を太い曲線で描き、その曲線の片端もなぞるように細めのピンクを少しだけ刷いて染め、立ち止まり、ふっと深呼吸をしてみる。ジミー・チューのヒールを手に提げて、渚まで白い砂浜を歩いてゆく。やがて、穏やかに打寄せる波で濡れた素足に夕日があかく染まる。どこかで見かけた海の風景だが、素足の天使はニューヨークの街に舞い降りる。

映画は楽しい。映画のなかにちりばめられた高級ブランドは、はたしてどこまで彼女たちの生き様を格調豊かに表現してくれたのだろう。映画は上質にしてユーモラスが常に織り込まれていた。ファッション誌の業界ドラマを実にハードに描きながら、感受性豊かに進行してゆく手際よさは、面白すぎるほど圧巻だった。プラダの黒いドレスを着こなすミランダ役ことメリル・ストリープの粋で美しい貫禄は、まったく隙のない見事な悪魔的カリスマ編集長で、そんなところへ就職することになった新人アシスタントのアンディ役ことアン・ハサウェイの変身過程は、まさに愉快なサクセス・ストーリーと呼べるものだった。アール・ヌーボーとポップアートの融合最先端ファッションには、プラダはもちろん、シャネル、ヴァレンティノ、ドルチェ&ガッバーナ、クリスチャン・ディオール、ベネチアンブロケード、ヴェルサーチ、グッチ、クロエ、マルニ、フェラガモ、ダナ・キャラン、ビル・ブラス、ジョン・ガリアーノ、フェンディ、などなど、衣裳デザイナーのパトリシア・フィールドの活躍はめざましい。とにもかくにもみんなおしゃれで、ハイセンスなファッション界が披露される。しかし、そこはアンディの想像を遥かに超えた超過密な世界で、忙殺どころか、恋人も私生活も犠牲にしなければならない時間との闘いでもあった。

ファッションモードの最前線を垣間見る感じで、パリ・コレクションの場面には、今年2008年1月に引退したばかりのイタリア人デザイナーのヴァレンティノ・ガラヴァーニ、スーパーモデルのハイディ・クラム、ブリジット・ホール本人たちがそのまま登場していたとのこと。華やかな世界一流のブランドが勢揃いだ。まばゆいばかりのブランド・アイテムが随所にきらめく。そして、アンディの結末はといえば、オシャレにまったく興味がなかった彼女、本当の自分っていったい何? 気が付けば、すっかりハイセンスな女の子になって、オシャレに染まっていた自分だったが、ファッション誌「RUNWAY」のボス・ミランダからの指令に追い立てられる携帯をついに噴水へ投げ込むことに。自分を取り戻すためにファッション誌の世界を立ち去るのだが、自分に合った仕事をみつけることも、それも一つの新しい自分だけのブランドであって自己主張の流儀かもしれない。

さて、唐突だが、私と本物のファッション誌「VOGUE」との出会いは、通りがかりの化粧品売り場にさりげなく広げてあった本に遭遇してからで、その広告見開きのページにはヴィダルサスーンの安室奈美恵が佇んでいた。本を手にして驚いたのは、そのファッション誌の醍醐味で、ずば抜けたデザインだった。私が求めていたグラフィックデザインはこれだと直感したのである。そんな縁もあって今年の2月から「VOGUE」を購入。「VOGUE_
Japan」を毎月購入して、「VOGUE_U.S.A」も購入。日本版「VOGUE」は付録がたくさんあり本の大きさも大きくて贅沢な紙質を多用しながら\680という安さで、U.S.A版は逆に小さくて普通の紙質なのに\1,607もする。中身の違いは、U.S.Aの方がさすがに優れたグラフィックデザインが盛り沢山で、表紙を飾るモデルも違えば、記事の内容もスーパーモデルのワンショットも異なる。ファッションに疎い私であるが、その広告のデザインの作り方はとても勉強になっている。話は戻る。映画『プラダを着た悪魔』で思ったことは、才能とは何であるか、自分に合った仕事とは何であるか、無理をせず身の丈に合った生き方を本当に見つけることが幸せであるということ、他人が作ったブランドに憧れるのもよいが、自信が持てる自分の生き方をハート形にブランドするのも美しいということだ。私は未だに自信が持てていないのではあるが、ともあれ、世界のファッションは楽しく人の心をときめかすものであることは確かである。

(2008/05/01)




『オペラ座の怪人』(2004年米 143分)
【監督・脚本:ジョエル・シューマッカー  出演:ジェラルド・バトラー/エミー・ロッサム/パトリック・ウィルソン】

ミュージカル『オペラ座の怪人』の映画化にも過去いろいろと製作されて来たが、今回の映画ほど洗練されたものはない。映像手法や映像構成には最先端技術が随所に使われ、映画製作そのものが芸術それ自体と一体化している。製作・脚本のアンドリュー・ロイド=ウェバー自らが舞台版の作曲者であり、ミュージカルをこなす俳優自身がいずれも吹替なしで歌声を聞かせてくれるのが、また実にすばらしい。怪人のファントム役を務めるジェラルド・バトラーといい、若干17歳にしてクリスティーヌ役を演じたエミー・ロッサムといい、まさに”音楽の天使”と呼ぶにふさわしい実力者たちの勢揃いがあってこそ、不朽の名作『オペラ座の怪人』も見応えがあるというものだ。感動は物語の陶酔の中にこそ秘められており、哀切な愛の行方も表現できるというもの。一輪の赤いバラを以って求愛する地下洞窟に棲む怪人と、怪人の執拗な愛欲に翻弄される音楽の天使クリスティーヌとの運命は、ミュージカルの終盤まで縺れ込む。美しい歌声のクリスティーヌを実は彼女の幼い頃より陰になって天上から声楽を教えていたのは、姿こそ見えぬが父のごとくに接して来た怪人のおかげであったことを、クリスティーヌは後で知ることに。彼女の前に姿を現したくとも現せない醜い顔のファントムは、顔の右側を常に仮面で覆い、自らの嘆きと悲しみと苦しみの代償に、音楽の天使クリスティーヌへの恋慕で紛らわせようとするが、その愛のかたちは偏執的であり、人間の心さえ損なわれた獣のような様相を呈して、ついには怪人の孤独と残忍さと愛の渇きにすっかりとオペラ座は呪われてしまう。1870年代のパリ・オペラ座の舞台にわれわれ観客も知らぬ間に引き込まれてしまうのだ。

さて、わからないのは、クリスティーヌと幼馴染みだったオペラ座のパトロンである子爵ラウル(パトリック・ウィルソン)が、プリマドンナの代役として舞台に初登場し主役を演じることになったクリスティーヌに、その歌声の美しさと、すっかり大人びて成長してみえる彼女にいきなり、あらためて一目惚れしてゆくシーンには、いささか違和感が湧く。時間をかけた相思相愛から結ばれてゆく恋愛感情でもなく、単に歌唱力と清純な美貌にあらためて愛欲が芽生えたにすぎぬ単調な地上の愛に対して、彼女が幼い頃から地下で見守り天上の歌声を指導して育てたかの如き怪人ファントムの報われない愛には、天秤にかけられぬ極上の愛がおぞましいほどに無惨な形で描かれてゆくわけだが、運命的な出逢いを考えるならば、仮面の怪人との悲恋のほうが遥かに重厚であるはずなのに、なぜクリスティーヌは野獣よりも平凡な貴公子を選んで去ってしまうのだろうか。せっかくの美女と野獣の物語でありながら、なぜ彼女は自らの価値を下げる真似をするのか。クライマックスにキス一つで醜い野獣は捨てられ、なぜ自分だけ安泰安楽の道を行こうとするのか、これでは不朽の名作たる所以をやや汚してしまうようにも思えるのだが、ミュージカルによってかろうじて怪人が救われているのもちょっとさびしい気がする。最初から報われない美女と怪人の悲恋であるならば、どこにわれわれは感動をすればいいのだろうか。

『キングコング』などはまさにそれらの代表例であるが、キングコングと美女の間には少なからず愛に溢れた悲恋にわれわれは感動してしまうが、救いのない悲恋には何か物足りなさを感じてしまう。美女の相手が野獣であれ人間であれ、悲恋物語が不幸に終わらず、愛の証しが観る側の心に残れば、それはそれで作品としては報われるはずなのである。ところが、自分が愛した天上の歌声の持主と実際に会ってみて、いざその男の仮面を剥ぎ取ると、相手は醜い顔の男ですさんだ心の持主だったから、醜い怪人とは恋することができないと言って立ち去ってしまう女には、かなり興醒めしてしまうが、いかがであろか。地獄のような地下生活をして来た醜い怪人が、最初から愛するに足りない男だというのであれば、この物語はあまりにも浮薄といってよい。しかしながら、たとえクリスティーヌに愛されなくとも、クリスティーヌを心から愛し慕っていた怪人の愛は、すこぶる正しかったといえる。まだ本当の愛を知らぬ娘よりも、愛されることしか知らぬ娘よりも、愛を捧げてくれる本当の愛を知る女性と出会ったほうが、怪人にとっては本当は救われる。これからまた何年か先にもし再び『オペラ座の怪人』が新たにリメークされるのであれば、今度はもう少し違った、深い愛情を持ったクリスティーヌに変えてほしいと思う。原作と脚本も多少書き変えねばなるまい。華麗で豪奢なシャンデリアのオペラ座もいいが、人間としても、人格としても、もっと造詣の深いゴージャスな人間模様の配置があれば、この作品はさらに高揚して楽しむことが出来るだろう。

(2008/01/21)

文・ 古川卓也





制作・著作 フルカワエレクトロン

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