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identity   2024/02/05


以前、散髪屋の兄ちゃんが、スマホの画像は全然みてないと言って、UPされた若い娘の顔写真やコスプレ写真には全く興味がないとのことで、全部スルーするらしくて、見るとしたら、動画しか目がゆかないですよ、と言われたことがある。どれもこれも加工されたプリクラのパッチリと眼を見開いた非現実的コピーアニメの、全く特徴のない美しい外見ばかりの顔写真ですからねえ、飽き飽きしますよ、とハッキリと言っていて、おかしかった。確かに同感する。自顔を加工する当人たちには都合のいいアプリなのだろう。自分を少しでもキレイに見せたいのは若い男女を問わず生来の本性なので、自撮りに夢中なのも結構なことではある。昔はそんなアプリなど無かった時代なので、現代の若者たちは大変恵まれていると言えようか。外見だけしか見ない現代の世相をよく反映している。外見の見映えのために化粧やアプリを使って、若い時間を楽しむのはとてもいいことだ。犯罪などに手を染めるよりかは、遥かに喜ばしいことに違いない。

若いときの時間ほど“たからもの”はない。齢を取ると若さはおカネでは買えないし、若い時に過ごした過去の時間は、けっしておカネでも取り戻せない。時間を動かすのは現在時点であり、過去に過ごした時間は思い出にしかならない。未来は夢の形であり、所有した時間でもない。未来を所有したつもりで目標を物語るのはナンセンスである。夢を持てとか、そうあるべきだとか、未来を計算する者ほど己れの利益に固執する者はいない。打算と利害に終始時間を費やしているのだ。この世に生を享けて、せっかくもらった時間をどう過ごすかは誰でも自由だが、どの時代に、どこの国に、どんな天涯に生誕して来るかだけは、あいにく本人の意志ではない。ハンディーを持って生まれて来る者もいるし、月並な家庭に生まれても五体満足で健康であればすべて良しとする両親に恵まれる人もいる。そんな“時間”を基軸とする、過去、現在、未来を小説に描いた三島由紀夫の明察は面白い。晩年の作品『豊饒の海』では四部作となっていて、「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」を、私は若い時に1年か2年かけて読んだことがある。黒い装丁外函の三島由紀夫全集を所蔵しており、三島の文体に惹かれていろんな作品を読んで学んだ。

「暁の寺」ではタイ・バンコクにあるワット・アルンラーチャワラーラーム寺院が舞台となって出て来るが、ヒンズー教の神々が現われてしまい、私としてはカンボジアのアンコール・トム遺跡のほうにしてほしかった。アンコール・トムにはバイヨンの仏教寺院があり、仏教思想のほうが日本人の私としては馴染める。タイも仏教国ではあるが18世紀創建の頃の仏教寺院よりも、13世紀頃創建のカンボジア仏教寺院のほうが圧倒的に魅力的で馴染める。ヒンズー教のアンコール・ワット遺跡寺院も壮大な宇宙観に包まれてはいるものの、巨大な観世音菩薩石造群を東西南北各城門の仏塔に配したアンコール・トム城郭都市の景観は、何といってもクメールの微笑をたたえた親近感ある菩薩の表情だ。来る者をやさしい慈悲のお顔で出迎えてくれる温かみだろうか。こんなに楽しい仏教遺跡は世界に類を見ない。その親しみやすさこそが大乗仏教の所以であり、紀元前に滅んだ戒律の厳しい小乗仏教(のち近代に忖度して上座部仏教とも称す)との違いでもある。


三島由紀夫は次第にそんな仏教に惹かれてか、最後の戯曲『癩王のテラス』を書いた。カンボジア・クメール王朝の初の仏教徒であったジャヤーヴァルマン7世国王は、癩病に感染しながらも病魔と闘い、仏教の理想を描いて戦乱で荒廃した国の復興ともなるであろうアンコール・トム造営に尽力したようだ。あのバイヨン寺院の菩薩像は確かに何だか7世国王に似てはいる。当時、仏像研究に無我夢中だった私は『癩王のテラス』を読み耽りながら、想像力を駆使して歴史の世界に勤しんだ。歴史の勉強は想像力こそが原動力となる。この戯曲を契機に『真臘風土記』(周達観・著/東洋文庫/平凡社)を購入研究し自著論文『有帆磨崖仏と防長の古代豪族』の参考資料ともなっている。私の「石仏論考」にも紹介している。『癩王のテラス』は文庫本でも所蔵している。

ところで、物書き屋は言い訳が嫌いなので、有名であろうが無名であろうが、発する言葉には常に責任を持っているのが作家である。いくらフィクションの小説であろうが、想像力はとても大事だ。そして、論文やエッセイも言葉の正確さは欠かせない。リアルに生きてゆくかぎり私は日本語が好きだ。日本人がこの頃とても美しい日本語を蔑ろにして使っているのをとても残念に思っている。漢字の一字でその年を表現するとか、SNSでよく見られる貧相な簡略言葉には実にがっかりさせられる。思慮の無さを露呈しているようなものだ。使う言葉に軽薄さを感じるし、昨今の世相はそれが当たり前だと思っているなら、思考力もとうに失せてしまった、ということなのだろう。何がそのような状況を作り出すのだろうかと考えるに、人があまり言葉を大切に重視しなくなったということかもしれない。カネとモノと衣食住に満ち足りてしまうと、人間は次第に堕落してしまい、しゃべるのも鬱陶しくなるのかもしれない。戦争や災害ですべてを失ってしまった時にだけ、人は人間らしさを取り戻す生きものなのかもしれない。

カード社会、キャッシュレス社会、個人番号社会、暗号化社会、いつの間にか人間は記号扱いにされる未来がすぐそこまで来ているのかもしれない。2024年10月1日、A-345678、K-0 死亡。Kは交通事故、0は死亡を表示。K-1なら、まだ生きていて重症の意味。K-9なら最も軽傷。K-11なら、しつこくまだ呼吸している、とか。緻密なトリアージ次第の順番が課せられる、すでにそんな社会に変容しているかも。今は4段階の色違いタグも救命順位としては致し方のない判別ではあるが、黒タグ=死亡、赤タグ=重症、黄タグ=バイタル安定、緑タグ=自力歩行・軽傷、おおまかにそれだけでは済まない時代もやがて来るだろう。しかし、合理主義社会にも奇跡的に生き返る死体もあるかもしれない。呼吸停止の時間次第で、見放されたとしても運がいいと稀に甦生することもある。何万人もの被災者があると、つい急ぎたくなる場合もあろうが、飼い主の動物が吠えたことで助かった命もある。生も死も常に運を伴っていることを忘れてはならない。平凡なことだけど、運を引き寄せる日頃の行いは案外と大事な気もする。運は占いではなく地に足が付いた生き方だからである。






制作・著作 フルカワエレクトロン

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