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古川卓也
        第三章  水の影
             (1) (2)


         (1)

「とても冷たいわ」と梨沙が言った。「ほんとうに、冷たい」と祐一郎もうなずいて言った。
「滝壷の音が、まだ、かすかに聞こえるわね」
「ああ、そうだね。滝の上は静かだ。小さな滝だったからね」
  あれから半年が過ぎて、新緑の京都を見たいと言い出したのは梨沙のほうだった。柏木が「鞍馬はどうだい?」と聞くと、梨沙は「ええ、どこでも」と言って嬉しそうに返事をした。鞍馬寺の仁王門の新緑が鮮やかだった。本殿へは上がらず、鞍馬川の渓流を見に行った。
「ずいぶん奥まで来たわ」と梨沙が言うと、
「こわくなった? 引き返そうか?」と祐一郎は心配して訊いた。
「このまま、まだ二人でいたいわ。だって、わたくしにはもう時間がないんですもの。どうせ死ぬんだったら、病院よりもこういう山奥がいいわ」
「バカなことを言うんじゃない」
「だって、わたくしにはわかりますもの」
「何が判るって言うんだい」
「知っています。自分の本当の病気も、半年も持たないっていうことも」
  祐一郎は梨沙の肩をつかんで、彼女をじっと見詰めた。梨沙の眼差しが不安に慄いていた。
「ダメだ、そんな弱気じゃダメだ! 僕を信じてくれ。誰がそんなこと決めたんだい? 医者は僕にこう言ったんだ。病気は必ず治るって」
「もういいわ。いいのよ」と梨沙はうつむいてしまった。
「よくない。僕を見て。僕の眼を見るんだ!」
  梨沙は細くなった浅い渓流の水を見据えて、
「わかっています。つい、ごめんなさい」と悲しげに祐一郎を見つめた。
  水の音がちょろちょろと小さな岩の間を縫って聞こえ、静かに流れていた。杉の巨木の森からはだいぶ離れて、細い北山杉の交じった山間(やまあい)だった。新緑と常緑の山の木々に囲まれて、青空が斑らに高く透けて見えた。小鳥の声も谷間に響いている。

  水は浅く澄みきって、きれいに流れていた。苔をまぶした丸い大きな石と、中くらいに突き出た小さな岩の間を縫って、こちら側にやさしく流れ込んでいた。水面にキラキラとわずかな木漏れ日が射し込んで、川砂の底には、流れてゆく水の影が映っていた。流れてゆく先には、折れた枝木が丸い大きな石とごつごつとした変形の岩の間にひっかかって、朽ち葉の溜まり場になって見える。水の影はそこへ吸い寄せられるように、小さな渦となって、消えている。まるで生き物のように水は影をくねらせながら、ただ下流へとそそいでいた。
「静かですわね」と梨沙がぽつりと言った。
「水の音と、小鳥の声だけだね」と祐一郎も耳を澄まして言った。
「山が深いのかしら」
「京都は(そま)の山が多いし、山深くまで歩けるのも特長かもしれない」
「それって、山を大事にしてるのかしら」
「だろうね。山を大切にしている町には、たいてい歴史と文化もその土地には根づいているね。辰野先生がよくおっしゃってた」
「それで父は外出を許してくれたのですわ」
「鞍馬寺とは言わずに、鞍馬山の新緑を見せて来ます、って僕は言った」
  梨沙はにっこりと皓い歯並を見せてくすりと笑った。
「このまま二人でずっと一緒にいたいわ」と言いながら、梨沙は崩れるように祐一郎の胸に凭れた。渓流のある山の中で、ひんやりとした空気に包まれながら、祐一郎はぐっと彼女を抱きしめた。彼女の弱々しい体の息遣いが切なかった。絶対に死なせるもんかと、彼は強く抱きしめた。しばらくして、新緑の青葉が目に染みた。

「そろそろ下流に向かって歩こうか。冷えると体に悪いから」と言って、祐一郎は梨沙のやわらかい手を引いて歩き始めた。渓流のせせらぐ音がだんだん大きくなりだした。ずいぶん山の奥まで来ていた。
「祐一郎さん。どこか宿で休みましょう?」と梨沙が言った。
「いいよ、宿で休もう。きつかったら、おんぶしてあげる」と言って、祐一郎は梨沙の前にしゃがんだ。
「ほら、乗って」と彼が言うと、梨沙は彼の背中につかまった。そして、
「重たくない?」と訊いた。
「全然」と祐一郎は言いながら歩き始めた。
  しかし数分も歩いていないのに、梨沙は「下ろしてちょうだい」と言った。
「本当に大丈夫だから、安心なさって。宿で介抱してくださる?」と梨沙は、ふるえながら悲しげに言った。そして、
「わたくしの体にまだ温もりがあるかぎり、覚えていて」と、声を詰まらせながら囁いた。
  祐一郎は彼女を背中からそっと下ろすと、涙ぐんでいる彼女の顔を抱き寄せた。病弱で痩せた細い腕が彼の背中にまわって、痛々しかった。死の恐怖感に襲われている彼女が、彼にも判り、いたたまれなかった。ただ抱きしめている他にすべがなかった。渓流の音がだんだん大きく聞こえていた。新緑に包まれた5月の谷間に、どこからともなく北山颪の風が一陣ほど吹き抜けていった。

(2001/05/08)


         (2)

  貴船の椿楼に宿をとって部屋を用意してもらい、医者にも診てもらった。とりあえず軽い食事の後に薬を呑んで、大事をとって安静にさせた。ずっと横になったまま、時間が経つにつれて、体調がだいぶ良くなって来たのか、梨沙は蒲団から体を起こすと、きれいな髪を指で梳くようにして「天の川の夢を見ました」と、ぽつりと言った。
「えっ?」と祐一郎はぴくっとなった。ずっと(そば)で彼女の顔の寝汗を拭いたり、看病をしていた彼だった。
「天の川の夢だなんて」と梨沙はくすりと笑った。そして、
「それとも、三途の川だったのでしょうか? 縁起でもないわね」と薄笑いをうかべて言った。
「そんな。うなされていたからね。少し寝汗もかいてたよ」と祐一郎は、梨沙を見つめながら返事をした。
  鞍馬川を下がって、町へは引っ返さずに、ちかくの貴船の旅館までタクシーで案内してもらったのだった。七夕の7月7日には、水祭りもある貴船神社だが、鴨川の源流は支流の鞍馬川とも貴船川ともされて、特に貴船川沿いにある貴船神社には水を司る神社としても有名だったが、そんな神社のちかくの宿で天の川の夢を見たという梨沙が、なんだか祐一郎には逆に縁起のいいことのように思えた。
「天の川の夢なんて、ずいぶん洒落てるね」と彼が言うと、
「でも、あなたはいらっしゃらなかった。姿がどこにも見えませんでしたもの」と梨沙は言った。
「僕は地上で君の世話をしてて、忙しかったからな。彦星にはなれなかったみたい」
「すると、わたくしも織姫なんかじゃないのね。きっと、お蒲団の上で、ぜいぜい
(むせ)んでいたんでしょうね」
  と梨沙が言うので、祐一郎もおかしさをこらえて、
「いや、僕の織姫にかぎって、そんなふうには、ひきつってはいなかったと思う」
「じゃあ、どんなふうに、ひきつっていたの?」
「それは、ちょっと言えない」
「まあ、そんなにひどかった、っていうことですの?」
「まさか、僕の織姫さんは、とても従順だった」
「きっと、ひどかったのね。もう、知りません」と言い放つと、梨沙は再び横になってそっぽを向き蒲団にもぐってしまった。
「いや、梨沙ちゃん、君の寝顔は天使のように、じゃなくて、まるで女神のように美しかったよ。そりゃあ、女神だって多少は寝息の一つくらいはするでしょう? それはまるで、鈴の音のように」と祐一郎がしゃべったところで、
「ウソばっかり」と彼女は蒲団の中から遮った。
  梨沙は蒲団のなかで再び祐一郎の方へ顔を向け、ちらりと見つめたが、またそっぽを向いた。
「でも、そんなあなたが好き」とポツリと言った。弱々しい細く澄みきった声で言った。祐一郎は蒲団の傍で(かしこ)まったまま
身動き一つせずにじっと、そんな彼女の言葉に自分にも熱く迸る感情のようなものが込みあげてきた。

  耳を澄ますと、貴船川の渓流の音が、静まり返った山の谷間の夜に清らかに聞こえた。部屋の障子とガラス戸を閉めて、祐一郎は内廊下の窓際の藤椅子に背を凭れた。梨沙はまた深い眠りに落ちていた。よほど疲れやすいのか、かなり体力を病魔に奪われている様子だった。衰弱がひどいようにも思えた。廊下の窓ガラスを少し開けて庭先の暗い外を眺めると、空気がひんやりとして、まだうっすらと肌寒い山あいの気候だった。
  ふっと夜空を見上げると、祐一郎は思わず「あっ」と小声をあげた。星が降り注ぐとはこのことかと、あまりの星の数の多さにおどろいた。夜の山かげの稜線がくっくりと円く見え、その谷間の空に広がった星々は、本当に川のように流れて見えた。月の光と雲がないせいなのか、満天の夜空に、本当に天の川が現れていた。梨沙がうなされて夢のなかで見た天の川も、これと一緒だろうかと祐一郎はふと思った。洛北の貴船でこんなに星がたくさん見えようとは、思いのほかだった。市街であれば、町の明かりでこんなに星屑は見えない。京都の貴船の山里で、こんな風情を発見して、彼は嬉しかった。梨沙にも見せてやりたいと思った。

  窓を閉めて、そっと部屋のガラス戸と障子を開けると、梨沙は目を覚ましていた。
「起きていたの?」と祐一郎が訊くと、
「ええ。どのくらいまた眠ってしまったのかしら」と梨沙が訊いた。
「そうだね。2時間くらいかな」と彼は腕時計を見て言った。
「いま何時かしら?」
「もうすぐ12時かな」
「えっ、そんなに。祐一郎さんも、お休みにならないと」
「ああ」と彼は梨沙の額に手をあてて、熱の具合を確かめた。そして、
「どう? 気分は?」と訊いた。
「今日はいろいろと、ごめんなさい」と梨沙は謝った。
「謝ることなんかないよ。それより、熱も下がってきたようだし、もし気分がよければ、ちょっとだけ、窓から外の空気でも吸ってみる?」と祐一郎は彼女を誘ってみた。梨沙は首をかしげて「うん」と言ったので、彼は毛布で彼女の体をしっかりと包み込むと、蒲団から抱き上げて窓際まで彼女を運んだ。そして、内廊下の藤椅子に下ろそうとした。
「イヤ。ここで、このまま下に、おろしてくださる?」と梨沙は藤椅子を嫌って言った。
「えっ? じゃあ、このまま、ここで」と言いながら、祐一郎は彼女を抱いたまま窓際に座った。
「ちょっと待って。部屋の電気を消して来るから。そしたら、よく見えるから」と言うと、彼は部屋の電気を消して、障子とガラス戸も閉めて部屋が冷えないようにした。そして、再び梨沙のもとに座り込み、彼女を温かく包み込むようにして抱いた。それから、窓を少しだけ開けた。
「上の方を見てごらん」と祐一郎は夜空を指差した。
  梨沙は言われるままに、少しだけ開いた窓際から空の方角へ視線をやった。
「ああっ、天の川」と小さく叫ぶと、
「きれい」と言いながら笑みをこぼした。
「これもまだ、夢の中かしら」
「今度は僕がそばにいるだろう? 夢の中じゃなくて、本当にあれは天の川みたいだね。こんなにきれいなのは、僕も初めてだよ」
「うそみたい」と梨沙は喜んだ。まるで子供みたいに甘えて言った。
「祐一郎さん。元気になったら、またここに来ましょうね」
「いいよ」
「必ずここに来ましょうね」
「ああ、二人でまた来よう」と祐一郎は、しっかりと梨沙を抱きしめて固く約束をした。

(2001/07/25)



挿入音楽は「フリー音楽素材 H/MIX GALLERY」(管理者:秋山裕和氏)より使用しています。
曲名: 挿入曲 「夢見る街」


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制作・著作 フルカワエレクトロン